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住宅ローンの始まりは?

住宅ローンの語源?


住宅ローンと死の関係

実は、前から気になっていたのが、この単語の mort- の部分。
これはラテン語で「死」を意味する言葉です。
(別に、ラテン語を勉強したわけではなくって、ポルトガル語では 死=morte(モルチ)という、普通に使う単語です)

住宅ローンと「死」の関係・・・

語源辞典を調べてみると、そんなに複雑なことではなくて、「担保=その人が死んだときのために保証とするもの」ということでした。


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住宅ローンの歴史

住宅ローンは、その金額の大きさや返済期間の長さから、他にはない特殊な商品のように思う方もいらっしゃるでしょう。ですが、実は多くの商品を購入する際に利用されている「割賦払い」のひとつです。

日本で住宅ローンが誕生したのは、今から約100年前の明治時代のことです。1897年(明治30年)、「東京建物」という不動産会社が他に先駆けて住宅の割賦販売を仕掛けたのが最初といわれています。

当時は日清戦争が終わり、戦争に勝利した日本の経済が上向いている時でした。住宅も、一般市民にとって手が届く買い物とはなっていたものの、やはり現金での購入はほぼ不可能。そこで高利貸しからお金を借りるものの、返済が滞る買い手も多く、社会問題となっていました。そこで、現在のみずほ銀行を創設した安田善次郎氏が、東京建物を創設し、割賦販売を開始したのです。
1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終了すると、戦後の焼け野原のなかで公的住宅ローン会社が産声を上げます。それが、住宅金融公庫(現在の住宅金融支援機構)です。住宅金融公庫が創設されたのは、1950年(昭和25年)のこと。これにより公的な貸付制度が開始されます。高度経済成長の波に乗り、また鉄道網が発展したこともあり、首都圏を中心に多くの「ベッドタウン」が開発され、昭和期には「家を買って一人前」という考えが定着するまでに至りました。現在は価値観の多様化により「賃貸派」も増えたものの、自宅購入はやはり「人生で一番大きな買い物」とされ、ビジネスマンにとって大きな目標のひとつになっています。


住宅ローンはどうやって普及していったの?

東京建物が住宅ローンの扱いを開始した当初は、支払期間は5年以上15年以内と規定されていました。高度経済成長期を迎えるも、1970年代まではいわゆる低金利の住宅ローンはありませんでした。 1970年代、この後にご説明する「住専問題」の主役となった住宅金融専門会社(住専)によって低金利の個人向け貸付ローンが広く浸透し、民間の銀行も取り扱う現在の流れへと続いていきます。

一方で、先ほど申し上げたように、政府系金融機関である住宅金融公庫は1950年(昭和25年)に創設されました。それからしばらく、住宅ローンを借りるといえば住宅金融公庫から借りる時代が続きましたが、東京で1度目の夏季オリンピックが開催された1964年(昭和39年)前後の頃から政府系金融機関と、民間の銀行・金融機関ローンがしのぎを削る時代が到来します。それに合わせて融資を受ける人の属性(収入や勤務先など)により「金利に差をつける」ことが次第に行われるようになり、職業や貯蓄などによって差が生まれる「優遇金利」という言葉が次第に広く知れ渡るようになっていきます。


安田善次郎

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「三条の誓い」
①独立独行
 他人の力を当てにしない。女遊びをしない。
②嘘は言わない。誘惑に負けない
③支出は収入の10分の8にとどめ、残りは貯金する
「陰徳を積め」という父の教え

「人知れず黙々と善行を行えば、おのずと人格は磨かれる」
「人の出入りの激しい店の入り口には、いつも履き物が乱雑に脱ぎ捨てられており、誰も直そうとはしない。善次郎は、誰に言われなくても、気が付けばそれらを揃えた。」


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無定見な寄附はかえって人を怠惰にする
それ故、彼が行った寄附の多くは天災や戦災の被害者に対するものだった。
北陸新幹線の開業に沸く富山。新しくなったJR富山駅から徒歩約1分の場所にある11階建ての明治安田生命富山ビル入り口に、安田善次郎翁の銅像が立っている。

ビル内に入れば、2階には「安田善次郎記念室」がある。翁の生誕150年を記念して作られたもので、その生涯にまつわる展示や自筆の書画、映像などを誰でも自由に見学できるようになっている。富山は善次郎翁が生まれ育った土地である。

展示ケースの中で、翁と妹の文子の座像と並んで置かれた木彫りの大黒様が目を引く。高さは5cmほど、米俵に乗った姿だ。

これは翁が幼少の頃、畑を耕していて土の中から見つけたものだという。それは、金融、不動産などさまざまな事業を展開するその後を暗示する出来事だったのかもしれない。
翁は終生、この像を大切にした。また晩年には趣味の画の題材として、しばしば大黒像を描いている。
安田家の遠祖は三善清行といい、平安初期の高名な漢学者だった。また清行から9代目の三善康信は、源頼朝と親しく、鎌倉幕府の基礎固めに尽くした。どちらも歴史書に登場する人物だ。やがて遠孫は、医師を業として備中国福山に定住。
宝永2(1705)年に、越中国婦負郡安田村に移った三善清雄が安田家直系の祖先である。清雄の三男楠三郎は元文2(1737)年に富山城下に分家して商業を始める。この時から屋号は出身村から「安田屋」とし、当主は三善姓から採った「善次郎」の名を襲名するようになった。
半商半農の安田家だったが、質素倹約に努めた四代目善次郎の時、代々の悲願であった士分を買い取ることができた。役職は最初は「御長柄」、やがて「御茶道」「掃除坊主」と昇進し、名を善悦と変えた。しかし藩士としての地位は低い。半士半農の生活であったという。
天保9(1838)年10月、善悦に3人目の男子が誕生する。上2人の男子は夭折し、実質的には長男であった。幼名は岩次郎。これがのちの善次郎翁である。
安田家があったのは、富山城の城下町から川をへだて、当時は「橋北」と呼ばれたエリアだ。農家や下級武士が多く住んだ貧しい地だったという。その中の鍋屋小路といわれた道幅2mほどの路地の、間口3間、部屋数3室の小さな家が岩次郎の生家。その場所は明治安田生命富山ビルから徒歩10分ほど。富山駅に近く、通勤通学にも便利な住宅地だ。


岩佐凱実よしざね

'64訪米経済使節団長として渡米し、現地で「神話と現実」と題した日米関係における講演を行い注目された。 '65日銀特融の主役の一人として経営危機の山一証券を救った。'66金融国際化への体制をしき、芙蓉グループの編成に中心的役割をはたす。 '67米国フォーチュン誌よりグローバリストに選出され、国際的に注目される。'68経団連副会長に就任。


東京建物

東京建物株式会社(とうきょうたてもの)は、東京都中央区に本社を置く不動産会社。安田財閥の創始者、安田善次郎が1896年(明治29年)に設立した日本で最も古い歴史を持つ総合不動産会社である。日経平均株価の構成銘柄の一つ[1]。芙蓉懇談会に加盟する。




日本不動産鑑定協会連合会

事務局

所在:東京都港区虎ノ門3-11-15 SVAX TTビル9F
 (設立から1994年7月までは、東京港区愛宕1-2-2にかつてあった第9森ビルに事務局があり、同年8月に現在の所在地に移転)
その他:現在の事務局のあるSVAX TTビルは国道1号線(桜田通り)沿いにあり、3月末~4月上旬には同ビル裏側の愛宕山 (東京都港区)の愛宕神社 (東京都港区)を中心に桜が満開となる。
その他にも付近には、ホテルオークラ、東京虎ノ門東急REIホテル、NHK放送博物館、等があり、さらに2014年3月29日には東京都市計画道路幹線街路環状第2号線(通称は環二通り、愛称は新虎通り。なお、開通以前は幻のマッカッサー道路と呼ばれていた。)が開通。同年6月11日には虎ノ門ヒルズが開業している。
さらに霞が関の官庁街や東京タワーも徒歩で10~15分圏である。


今日の日月神示


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