今日の山田君 〜思うこと〜 75
小学6年生の息子がいるため今卒業アルバム委員をやっている。
小規模校なため一番下の子のときにアルバム委員をやるのが通例となっている。
夏休み前までに1年生から5年生までの写真選びを終わらす必要があるとのこと。
作業量が多いため大変そうなイメージがあったし、アルバム委員で意思疎通がとれるか心配もあったけれど、蓋を開けてみたらただのおもしろい思い出になりそうな出来事だった。
そんな1回目の集まりは駄菓子屋さんで行われて、駄菓子をたべながらワイワイと写真を選んだ。
多いもので1学年1000枚くらいの中から40枚を選び出す作業。
書いていて思ったけれど、「作業」って言葉って重いイメージがする。
「こなさなきゃいけないこと」という意味合いをその言葉にのせてしまっているからだろうか。
あるアルバム委員が「楽しくやろうね」といった。
その瞬間、その場の目的が「作業する」から「楽しむ」に変わった気がした。
そこまで関係性が深くない人とも場を共有すると楽しく過ごせるのって魔法みたいだなと感じる。
普段基準としてもっているイメージはその人の1%ほどの情報で判断しているのかもしれない。
自分が思っているその人の人柄が、たとえば自分にとっては厳しく感じる一面から浮かび上がったものだったとしても、何か共に場を共有し協力し合えた体験があれば簡単にあたたかなイメージとして上書きされる。
それぞれが気にするポイント、得意とする行動が違うおかげで、漏れなく物事が進んでいくのがおもしろい。
足りないピースを自然と誰かが埋めている。
その夜、子どもたちにお土産に駄菓子を買って帰った。
「うひひ♪」と笑いながら「おっぱいチョコもあるよ」と次男に見せたら、「ったく!そういうとこだよ!」と顔おをしかめて彼は言った。
身近な人には時々くだらないちょっかいをかける。
「ったく!めんどくさいやつだなぁ 苦笑」を引き出せたら勝ちゲームを無意識にやっているのかもしれない。
そういう次男も怒られているときに相手を笑わせるゲームを仕掛けてくる。
笑わせたら勝ちだと知っているからタチが悪い。
笑っちゃったらもう怒れなくなるのよね。
3月には友達家族に誘われて大阪へ旅行にいった。
誘われて参加するものや人に委ねるのって、楽しさが半減してしまいそうで若いときは苦手だったけれど、いまでは逆に想像がつかない分おもしろいことが起こりやすいのかもなと思っている。
急に降ってきた旅行のため費用をどうするか夫婦で問題に上がりそうになったが、問題視するのをやめたら不思議と問題ではなくなった。
(書いていて「問題視しなくなると問題ではなくなる」ってほんとなんだなと改めて思った。あとから思えば問題視してしまう自分の思考が問題だった…というね)
夫たちは仕事があるため、一泊二日で帰っていった。
母と子らは二泊したのだが、それも友達が提案してくれた。
その子は年下なのだが、その子といるとしっかり者をやらなくて済むので楽ちんだ。
その子からすると私はのんびりしていてO型っぽく見えるらしい 笑
関係性でまとう雰囲気が変わる。
昔はいつもムラがなく誰に対しても均一であるように見える人を羨ましくも思ったが、よくよく考えてみれば同じであること(単調さ)に飽きてしまうのだから、自分自身にも変化(いい方向にも悪い方向にも)を起こしてるのかもしれない。
つい最近 はじめて自分と友達になれたと実感した。
なんだか満ちた気持ちになったし、うれしかった。
いまは自分が不安に思わなければ不安なんて存在しないのだとそういえる。
揺らぎの中にいる。
外へと開きすぎて苦しさを感じるなら少し閉じたらいいし、閉じすぎて苦しくなるなら少し開いてみたらいい。
完璧に制御することをあきらめれば(自分をしばることをやめれば)、波も許容できるようになる。
…自分へ向けたことば…
後から思ったこと。
忘れっぽいため大切そうな文章などをノートに書いて残しておくのだけれど、黙読するより音読するほうが内容が染み込みやすいように、目で文章を追うよりも書き写す方が記憶に残る。
漢字練習をすると手が漢字を覚える。
勝手に手が動くようになる。
写経をすると教えが身体に記憶される。
意識の中に書き込まれる。
身体を通すと不思議と自分に馴染みやすい。
自分の身体を大切な人のように扱ってみたら、安らぎは外からくるのではなく内から起こるものだと気づかされた。
赤ちゃんに触れるときのように自分にも同じように。
そっと、やさしくていねいに。
そして怖がらずに。
内から起こる波紋は身体全体へ。
そしてそれは内から外へ。
知り合ったばかりの人とやってもおもしろそう♪
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