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改めて考える、パンデミックとは何だったのか?

包み紙が変わっただけで、中に入っているモノは昔から同じだったのか?

【パンデミックの捏造】
ヒュルミヒ弁護士たちの大陪審3日目は、ポリメラーゼ連鎖反応法によるウィルス検査についてだった。
この検査法については、最初からおかしなことがたくさんあったと専門家たちは口々に言っていた。そもそもこれは感染症の診断に使ってはいけないと発明者のマリス博士が言っているのにもかかわらず、今回のパンデミックでは最初から当たり前のように使われていたのだ。しかも、典型的な症状があろうとなかろうと、ただその検査の結果だけをもとにして、感染症例として扱われた。これまでは症状からの診断がまず不可欠で、検査は補助的に使われていただけだったのにだ。症状もないのに検査だけして、その結果で診断されるなどということは、これまで一度もなかったことだった。
無症状でも感染しているケースがあり、その感染者が他の人にうつす危険があるということで、陽性反応が出た人は誰でも隔離させられることになった。だけどそのようなケースはあったとしてもごくまれなことなのだと、感染症の専門家たちは言っていた。実際、無症状感染者とされた人々のほとんどすべては、二週間隔離された間にも一度も症状が出ることはなかった。つまりまったくの健康者だったのだ。
この検査については、最初からおかしなことがたくさんあった。武漢で最初に症例が発見されたのが1月初めのことなのに、1月15日にはもう検査キットが出ていたというのだ。その時点では、まだ感染は世界的に広がっていたわけでもなかったのにだ。それに、同じ症例が大量に出た場合、まず化学的な毒物のせいなのか、あるいは放射線のせいなのか、何かの菌によるものではないのか、とあらゆる可能性を見ていくもので、それには普通もっと時間がかかる。それが、最初からウィルス感染と決めつけたようにポリメラーゼ連鎖反応法のキットをこしらえていたのだ。しかも、典型的な症状がない人までが陽性になっているのだから、明らかに誤差が多すぎる検査キットだというわけなのだけれど、その後一度も修正されてはいない。
そうしたことからしても、この検査キットはパンデミックを捏造するために作られたものではないかという疑いが湧き起こってくる。この検査キットは、武漢から報告されたウィルスの遺伝子配列を使って、コンピューター上でシミュレーションして作った遺伝子配列を見つけるようにできていて、この遺伝子配列を作ったドロステンは、患者を一人も見てはいなかったし、ウィルスを手に入れていたわけでもなかった。
病源がこのウィルスであるというには、ウィルスを分離培養して、それが他の人に同じ症状を起こすかどうかを確かめなければならない。これがコッホの原則で定められている方法なのだけれど、このパンデミックではそんな手続きは踏まれず、2年も経つのに未だにウィルスが分離培養されさえしていない。患者の粘液を遺伝子解析してウィルスらしいものが見つかったからと言って、それが病源になっているかどうかはわからないのだ。すべてのウィルスが病源だというわけではなく、多くのウィルスは人体内で共生しているのだから。
しかも、生化学者のケメラー博士によると、この検査キットの元になっているドロステンの論文は、まったく非科学きわまりないものだという。ポリメラーゼ連鎖反応の増幅回数を示すCT値が24を越えたら、科学的にその物質が存在する根拠にできないとされているにもかかわらず、ドロステンはCT値45を論文の中で推奨していた。それだけを取っても、この論文がまるきり信頼することができないものだということがわかる。論文が公表される前には、査読といって、何人かの専門家が論文を読んで承認することになっているのだけれど、何とこの論文は査読に出されてから、24時間以内に公表されていた。これはあり得ないスピードだ。つまり、査読済みというのは真っ赤な嘘で、まったくのノーチェックで公表され、検査キットが製造されたということなのだ。
この検査では、綿棒で上部呼吸器の粘液が取られて、それを小瓶の中の液体につけて、それを研究所に持っていく。この小瓶の中の液体というのは、保存のためのものなのだけれど、これに浸けるとウィルスは不活性化してしまうのだそうだ。ということは、研究所に持っていった時点で、もはや増殖可能の生きたウィルスなのか、もともと増殖能力のない死んだウィルスだったのかはわからない。感染しているかどうかを判定するには、増殖可能のウィルスが存在しているかどうかを調べなければならないのに、この検査ではそれがそもそも不可能だというのだ。
化学者でもあったタンザニアの大統領は、この検査に不審を感じて、果物やモーターオイルなどをつけて検査に出した。すると陽性判定が出たので、この検査は信用できないと言っていた。彼はその後、不審な死に方をしたのだけれど、スイスのシュトゥッケルベルガー博士によると、この検査を批判した人はほとんど不審な死を遂げているそうだ。発明者のマリス博士も、パンデミックが始まる数ヶ月前に急死しているけれど、亡くなったのはこの二人だけではなく、まだまだたくさんいるのだと。
この検査法は、感染を証明することはできない上、偽陽性を大量に作り出すのだ。それなのに、WHOもCDCもこのドロステンのキットだけを検査に使うようにと勧めている。だからといって、何故病院ではそんな検査を使うことに疑問を持たないのだろうか? アメリカでは、この検査で陽性が出て感染者と判定されると、保険が20%増しで病院に流れるしくみなのだそうだ。それで病院も、なるべく多く陽性判定が出るようにとドロステンのキットをCT値を上げて使うという事態になっているらしい。つまり、このパンデミックはこの偽陽性を大量に出す検査法によって捏造されたケースデミックというものだったことになる。
ところで、2020年の春には、ニューヨークでは実際に多くの人が亡くなっていた。病院で亡くなった多くの人は、腎不全を起こしていたということだった。だけど、呼吸器系感染症が腎不全を併発して患者が亡くなるなどということは、これまで一度も聞いたことがないと、ニューヨークの医師アーディス博士は言っていた。
それで不審に思った博士は、入院した患者たちがレムデシヴィルという抗ウィルス剤を投与されていることを発見した。これはファウチ博士がこの感染症の治療に使うようにと勧めていた薬なのだけれど、このレムデシヴィルは何と治験中にあまりに死亡者が多いので中止になったという薬だった。エボラ熱の治療にと治験していたというのだけれど、何とそのうち40%以上もが腎不全か心不全、あるいは肝不全を起こして亡くなったというのだ。抗ウィルス剤ならば他にもいろいろある。ところが、よりにもよってこの最も致死率の高い薬が、この感染症の治療にと特別に推奨され、それだけを使うようにと指導されていたのだ。つまり、ニューヨークで出た多くの死亡者というのは、実際にはウィルス感染症で亡くなったのではなくて、薬害によって内臓障害を起こして亡くなっていたということになる。
レムデシヴィルはまた、血栓ができやすくなることでも知られている。なので、これを使う前には、患者の血液凝固の状態を調べなければならないとされているそうだ。このウィルス感染症は血栓ができて、腎不全を起こすことがあるから恐ろしい病気であると言われていたのだけれど、それもすべては、レムデシヴィルによる薬害に他ならなかった。
ニューヨークでは2020年の初めに感染者のうち26%までもが死亡したというのだけれど、これはニューヨーク市だけのことで、州全体の死亡率はたったの1%だった。ニューヨーク市の病院では、入院患者全員に5日間レムデシヴィルを点滴していたのだ。この時期ニューヨークでは、検査で陰性だった人でも、呼吸器系の症状があれば感染者として扱い、同じ治療がなされていた。実に恐ろしい話だけれど、この人たちはつまり病院で毒殺されたようなものだったのだ。ニューヨークと並んで死亡者数が多かったブラジルでは、やはりレムデシヴィルだけを治療に使っていたそうだ。
多くの医師たちは、経験からこの感染症のような症状にはハイドロクロロキンが効くことを知っていた。ハイドロクロロキンは、量さえ間違えなければ、ほとんど副作用もない薬だ。実際に治療に使って、いい効果を上げていたのにもかかわらず、この薬はこの感染症の治療に使ってはいけないとして、認可されなかった。まったくおかしなことなのだけれど、それは抗体を作る予防の注射を緊急認可させるためだったらしい。効果的な治療法があるということであれば、緊急認可は出せないからだ。それで、危険なウィルスだという印象を与えるために、あえて最も毒性の強い薬を治療に使うように指導していたということになる。
さらには、薬害で腎不全を起こした患者に、鎮静剤としてメダゾラムを与えるようにと指示が出ていた。ところでこの薬は、特に呼吸器系の神経を抑圧してしまうことで知られていた。身体の弱っている高齢者に与えたりしたら、それだけでも呼吸困難を起こしてしまう危険があるという。それを、呼吸器系の病気で入院していた患者に与えたというのだ。その結果、多くの患者が呼吸不全で亡くなることになった。
南アフリカの開業医チェティ博士は、検査に意味がないのを知っていたので、検査をせずに症状から患者を治療していて、ハイドロクロロキンをよく使っていたそうだ。何千という患者さんを治療してきたけれど、一人として腎不全も心不全も起こしたことがなかったそうだ。ほとんどは数日で問題なく治ったと言っていた。そのことからしても、ウィルス自体は実のところマイルドなインフルエンザ以上のものではなかった。血栓ができて腎不全や心不全を起こした人たちは、治療によって重症化させられていたのだ。
イギリスの葬儀屋さんのジョン・オルーニは、2020年は死者数は例年とまったく同じで、少しも増えた風ではなかったと言っていた。ウィルス感染症で死んだとされている人でも、遺族と話していると実際には癌などで亡くなっていた人が多かったそうだ。それどころか交通事故で亡くなって頭蓋骨が陥没している遺体まで、ウィルス感染者とされていたこともあったそうだ。奇妙なのは、ひどい肺水腫を起こして亡くなっている人がよくいたことで、そのようなものはこれまで見たことがないと彼は言っていた。レムデシヴィルを投与されて、腎不全を起こし、肺に水がたまっていたらしいのだ。
彼自身、呼吸器系の症状で入院したことがあったのだけれど、検査で陰性だったのにもかかわらず、医師たちはレムデシヴィルを投与しようとしたそうだ。彼はレムデシヴィルを投与された患者がどうなったのかを知っていたので、拒否した。するとオックスフォード大の医師だという人がやってきて、レムデシヴィルを使うようこんこんと説き伏せ始めたそうだ。それから彼の妻がやってきて、彼を家に連れて帰ったというのだけれど、あのまま病院にいたら死んでいたかもしれないと彼は言っていた。
死亡率が急増したのは、抗体を作る予防の注射が行われ始めた2021年1月からのことだった。そのときから急に、亡くなる人が3倍に増えたとオルーニは言っていた。
チェティ博士は、何千人という患者を治療してきたけれど、ほとんどは数日で治る中で、ときどき発症してから8日目に急に呼吸困難になってやってくる患者さんがいると言っていた。このような急激な悪化は、ウィルス感染のせいだとは思えない。ウィルスにアレルギー反応を起こしているのではないかと思って、ステロイドと抗ヒスタミンを与えたら、これがよく効いて問題なく回復したそうだ。
このことからして、ウィルスというよりもスパイクたんぱく質が毒素なのじゃないかとチェティ博士は言っていた。また奇妙なことに、第一波のときは患者はほとんどが黒人だったのに、第二波のときはインド系の人がほとんどで、第三波は白人系ばかりだったという。それに、8日目になって悪化するケースは、だいたい呼吸困難だったのに、次の流行のときには呼吸困難ではなくて胃腸の症状で、最近の流行では疲労状態だそうだ。人種によって反応が違うなどということはこれまで見たことがないので、これはやはり人工ウィルスで、一定の遺伝子でアレルギー反応起こすように設計してあるのではないかとチェティ博士は言っていた。
いずれにしても、8日目に悪化することがあるのに、14日間も自宅隔離させるのは危険だとチェティ博士は言っていた。アレルギー反応が起きた場合、急激に悪化するので、すぐに抗アレルギーの治療をする必要があるということだった。
こうした事実を見ていくと、パンデミックというのはまったくの捏造であったことがくっきりと見えてくる。まず偽陽性を大量に出すように作られている検査法があり、それで感染者数を増やしていた。さらには、恐ろしい病気だという印象を作るために、毒性の強い薬を使わせて、患者が本当に呼吸困難で死ぬように仕向けていた。
その目的は、パンデミック宣言を出して、それによって世界中の人々の行動を自在に制限するためだった。そして実験的な薬剤を緊急認可させ、それを受けさせることが目的だった。
どうしてこんな恐ろしいことができるのか、まったく想像を超えた非道なのだけれど、1日目の証言に出てきたシティ・オブ・ロンドンのもくろみが見えていると、これがどういうことなのかも想像できる。彼らはこれまでも、人々を戦争に巻き込むことによって同じことをしてきたのだ。あることないことをでっち上げ、恐怖をあおって、戦争に駆り立てていた。そして行動を制限し、言論を制限し、たがいに殺し合い、破壊させておいて、すべてを独占してしまう。それを思えば、これは今に始まったことじゃなく、この20年ほどが長い戦争だったのだとも言える。
その最終段階に来て、私たちはついに支配の構造を見破り、自分たちを解放し始めたのだ。この大陪審はその一つの結果であり、大きな始まりでもあるのだと思う。
***
画像は、証言するジョン・オルーニ氏。


プラトンの『ゴルギアス』

ソクラテス
弁論術はいかなる技術でもなく、単なる経験、慣れにすぎない。
人を喜ばせるための経験知であり、それはひとつの「コラケイアー(迎合、おべっか、へつらいの意)」の術なのだ。
それは、お化粧のようなものだ。
本来、身体への気遣いと努力から生まれる健康的な肌色を、化粧によって偽装し、人を欺き、本来の美しさをなおざりにする。
あつかう事柄の本質を理解し理論的な説明もできるのが本当の技術だ。
弁論術やソフィストの術は、本当の技術である政治術に偽装し、相手の好みの経験的な知識だけで釣る詐術なのだ。

ポロス
あなたは社会の中で最高の実力者である弁論家をおべっか使いとして見下すのですか?

ソクラテス
それどころか弁論家は社会の中で最も弱い存在だ。

ポロス
何と!弁論家は独裁者のように、思いのままに誰かを死刑に追い込んだり、国外追放したり、財産を取り上げたりできるのですよ?

ソクラテス
そう、思いのままにやっている。
ただ自分が善いと勘違いしていることだけを。
人間の行為というものは、それ自体ではなく、その先にある目的に向けられるものだ。
誰かを死刑にするのも、そうした方が善いと思う目的があるからこそ為すのであって、生かしたほうが善いと思うなら死刑にしない。
だから、もしその目的とする善いと思うものが誤りであり、むしろその行為が自分が本当に望んでいることと正反対の結果をもたらすとしたら、どうだろうか。
彼は思いのままに振舞いながら自分の首を絞めることになる。
彼らは善悪の判断に関する技術を持たないがゆえに、身体の不健康さを化粧で誤魔化す者の様に、本当に望んでいることを思いのままの振る舞いで覆い隠してしまうのだ。
だから彼らは一見強そうに見えて、実は弱い存在だと言うのだ。
思い通りにはしても、望み通りには振舞っていない。

ポロス
どちらにしろ、独裁者のような力を持つ彼らを羨ましいとは思わないのですか?

ソクラテス
惨めな人達に対しては、羨みではなく、憐れみが必要なのだ。

ポロス
憐れなのは、不正に死刑に追い込まれ死んでいく者の方でしょう!

ソクラテス
不正に死刑を加えた者よりはましだよ、ポロス。

ポロス
では、あなたは他人に不正を加えるより、自分が不正を受ける方がよいと言うのですか?

ソクラテス
そういう状況になるのはもちろん嫌だが、どちらかを選ばなければならないとすれば、不正を受ける側を選ぶ。
少なくとも、君の言うような独裁者には成りたくはない。
例えば、君がそういう独裁者のような力を持ったとして、手当たり次第に気に障る者を殺すだろうか?

ポロス
いいえ。
そんなことをする者は、必ずいつかやられます。

ソクラテス
これで分かると思うが、思い通りに振舞うことが善いのはその人の身のためになる時だけなのだよ。

ポロス
たしかにそうです。

ソクラテス
そして私はこう考える。
その人のためになるのはその行為が正(正義)にかなうときであり、身のためにならぬのは不正を行う場合である、と。

ポロス
そんなばかな!
むしろ世の中は、不正な者が幸福を享受し、正しい者が不幸になるのが常でしょう。
そんな証拠はそこかしこに転がっている。

ソクラテス
しかし、その不正を行う者が処罰されたり復讐された場合にはどうか。

ポロス
そんなことになれば、とてつもなく不幸です。

ソクラテス
すると君の意見は、不正を犯しながら罰を受けない時こそ、幸福であるということになる。
しかし、私は逆に、不正を犯しながら罰も報復も受けない時こそより不幸であり、罰を受ける人達の方がまだましだと言おう。

ポロス
ははっ、なんて珍妙な。
不正を暴かれ拷問を受け、身体を切り刻まれ目玉をえぐられ家族ともども火あぶりに処されるのと、不正がばれないまま王位に就き何不自由ない人生を送るのと、どちらが幸福かは誰でも分かることでしょう!
ここに集まって居られる方々に訊ねてみてください。

ソクラテス
いかにも弁論家らしいやり方だね。
しかし、私は聴衆の感情を脅しつけたり、票を集めたりすることには何の興味もない。
いかに目の前の対話者である君一人を、こちらの意見の支持者、証人にできるかだ。
ここで君に問うが、不正を加える側と加えられる側、どちらが醜い者だろうか。

ポロス
もちろん加える側です。

ソクラテス
醜いものは悪いもの、美しいものは善いものだと、君は思わないかね(ここで使われるギリシア語の「美しい」は語義的に「立派な」という意味が含まれます)。

ポロス
思いません。
「美醜」と「善悪」は別のもので、つながりはありませんから。

ソクラテス
例えば、身体が美しいと言う時は、それが有用で機能的にうまく働いている時、あるいはそれを眺める者に喜びを与えるようなある種の快楽がある時だ。
美しい(立派な)ものとは、何らかの有益性、何らかの快楽、あるいはその両方を持つもののことではないかね。

ポロス
すぐれた美の定義だと思います。

ソクラテス
では、美しさの反対である醜さの定義は、何らかの有害性と苦痛をもたらすもの、ということになる。

ポロス
同意します。

ソクラテス
先ほど、君は不正を加える方が受ける方より醜いと言ったが、そうなると不正を加える方が「有害さ」か「苦痛」のどちらかあるいは両方の面において、受ける方より多く持つことになる。

ポロス
そうなりますね。
しかし、「苦痛」の面においては不正を加える者の方が苦痛が多いなどということは、決してありえません。

ソクラテス
ということは、残るのは「有害さ」の面だけということになる。
つまり、不正を加える者は受ける者より、より「醜く」より「害悪」である。
そんなものを君は選ぶのかね。

ポロス
・・・。

ソクラテス
さて、では本題に戻ろう。
不正を犯し罰を受けることは最も不幸だという君の意見と、不正を犯して罰を受けない方がもっと不幸だという私の意見、この対立を検討してみよう。
懲らしめ方を誤らなければ、罰を受けるということは不正を正す正義を受け取るということだ。
先ほど君が不正より正の方が美しい(立派)と述べたように、罰を受ける者はそれによって、より正しく美しくなるということになる。

ポロス
ええ。

ソクラテス
とすると、罰を受ける者は、罰によって有益なものを得る。
私が思うに、ここで受け取る有益さとは、心(魂)が前よりも優れたものになることであるはずだ。
罰を受ける者は心の欠陥から救われる。
「財産と、身体と、心」という人間の大きな三つの要素において、それぞれ対応する悪い状態とは「貧乏、病気、不正」だ。
しかし、この中で最も醜いのは心の劣悪さではなかろうか。

ポロス
まったく、その通りだ。

ソクラテス
先ほどの美醜の定義および不正における苦痛の考察に従うと、最も醜いものは最も害悪になるものである、ということになる。
したがって、心の劣悪さは人間にとって最悪なものであることになる。

ポロス
ええ。

ソクラテス
人を貧乏から解放するのは金儲けの術、病気から解放するのは医者(医術)、では不正から解放するのは何かね。

ポロス
不正を犯すものがいれば、裁判官の下へ連れて行きます。

ソクラテス
司法(正義)において懲らしめるためだね。

ポロス
ええ。

ソクラテス
ところで、身体にせよ心にせよ悪い状態である二者、治療を受けてその悪から解放される者、治療を受けず悪いままでいる者、どちらが惨めだろうか。

ポロス
もちろん、治療を受けない方です。

ソクラテス
けれど、治療を受ける必要のない、元々心や身体に悪いものを持たないことが、最もよい事なのではないかね。

ポロス
ええ。

ソクラテス
と、いうことは、幸福な順に並べれば、心の中に悪を持たない者、心の中に悪を持つが治療する者、心の中に悪を持ち続け解放されない者、ということになる。
この一番不幸な者とは、最初に君が幸福だと言った「不正を犯しながら罰を受けない者」ではないかね。
巧妙に立ち回り、不正によって成り上がった独裁者や弁論家や権力者たちのような。

ポロス
そういうことになります…。

ソクラテス
結局、そういった連中がやっていることは、大きな病気にかかりながら、治療という一時的な苦痛や恐怖から必死で逃げようとしている子供ようなものではないかね。

ポロス
そう見えます。

ソクラテス
そうしたことが起こるのは、子供が医術の重要性を知らないように、彼らが司法の罰の一過的な苦痛の面ばかり見て、その先にある有益性に関して無知であるからだ。
彼らは治療の苦痛から逃避するために、ありとあらゆることを画策し、金や権力や仲間を用い、弁論術で騙そうとする。

ポロス
ええ。

ソクラテス
これで私が最初に言っていたことの方が真実であったことの証人に、君はなってくれるね。

ポロス
そうならざるをえません。

ソクラテス
そもそも一番気をつけるべきことは、心の中に不正の芽が出ないようにすることであり、第二にもし不正を犯してしまったら自ら進んで治療へ向かうことだろう。
君が最初に言ったような使い方、弁論術が不正を覆い隠すための方法になってしまってはいけないのだよ。
弁論術が役に立つのは、不正を告発しそれを明るみに出すために用いられる時なのだ。
治療という苦痛から逃げる者に対し、勇気を持ってその苦痛に立ち向かい、最大の悪である不正から解放され、心の健康を回復させるためにこそ、弁論術は必要なのだ。

ポロス
不思議な話ですが、確かにその通りです。


<第三幕、対カリクレス戦(481c~507c)>

カリクレス
ちょっと待ってくれ、ソクラテス。
あなたはそれを本気で言っているのか?それとも何かの冗談か?
われわれ人間の現実の生き方は、あなたの言う生き方とは正反対のものではないか。

ソクラテス
私は論理的な帰結としてこういう意見を導いたのだよ。
もし反駁するなら、世間一般の意見の合唱で掻き消そうとするのではなく、純粋にその哲学の誤りを論証してくれたまえ。

カリクレス
なんとも得意になってまくし立てる姿は、あなたの難じる雄弁家そっくりだな!
まず、ゴルギアスは世間の目を気遣って、「正義についても教える」と心にもないことを述べ、そこを突かれた。
ポロスも同様に、本音を述べることを恥じて、「不正を受けるよりも加える方が醜い」などということに同意してしまった。
人間は羞恥心や世間の目に負けて、本音を言う勇気を持てないならば、必ずその言動に矛盾が生じる。
ソクラテス、あなたは真実を追究すると言いながら、そういう人の弱みにつけこむ方法で、相手の言説に矛盾を生じさせ勝とうとする、卑劣な人間なのだ!
自然本来の法則と社会における法はまったく別のものなのだよ。
自然本来の性質からして、不正を身に受け身体や財産を損ねることは、自然の生命力を減じる醜いことでしかない。
しかし、社会的な法習慣においては、不正を加えることが醜いとされる。
ソクラテス、あなたはこれらの違いを分かっていながら、議論の中で巧みにすり替え、ポロスをやりこめた。
社会の法の制定者とは、世の大半を占める弱者共であり、自分たち弱者の身の安全と利益をはかる為に法律を作ったのだよ。
本来の自然の中で強い者や有能な者を去勢するために、社会の法や道徳の名の下に、過度な所有や不平等は不正であり、エゴや暴力は悪いものだと決めたのだ。
劣等な弱者どもは社会が「平等」であることによって、強者が本来持つべきものから分け前を得、満足するのだ。
しかし、自然本来の法においては、強さ、有能さ、豊かさ、そういうものが正義であることは、自然界を見れば分かることだ。
自然の法において王者であるライオンを、社会の法は小さな頃から飼いならし、やれ平等を守れ、やれ大人しくしろ、それが正義で美しいと言って型にはめ、子猫のようにしてしまうのだ。
そんな奴隷の頸木から、自然本来において王であった強者を解放し、自然の正義を回復しなければならないのだ。
これが世界の真実の姿なのだよ、ソクラテス。
いつまであなたは哲学などという下らないものに浸っているのだ。
確かに若い頃にはそれなりの効用もあろう。
しかし、いい年をしてまだ哲学などにふける者は、現実社会の中で生きていくためのスキルを磨く時間を失い、せっかくの素質を潰してしまうのだ。
社会常識、コミュニケーション能力、様々な快楽の経験、そういうものを持たず、社会の中でまったく通用しない木偶の坊に成り下がるのだ。
私も哲学の重要さはよく理解している。
しかし、時節をわきまえないあなたの姿は、まるで赤ちゃん言葉をしゃべる大人のように奇妙なのだよ。
こんなことを言うのも、私はあなたにある種の敬意を持っているからなのだ。
せっかく人よりはるかに優る才能を持ちながら、無駄にしている。
そして、きっといつか誰かがあなたを無実の罪で死刑に追い込もうとするだろう。
しかし、今のあなたの力(哲学)では、我が身を守ることも、無実の仲間を助けることもできないだろう。
そんなものが果てして「知恵」などと呼べるだろうか?

ソクラテス
君と出会えたことは、なんと幸運なことだ。
互いの言動を吟味するためには三つの素養がいるが、君はすべてを持っている。
当然必要な能力である「知識」。
相手を本当に思いやる「好意」。
本当に思うことをきちんと伝えられる「素直さ」。
たしかにゴルギアスは相当な知識を持っていたが、君ほどの好意、そして何より本音を語ることをしなかった。
私の魂が本物の黄金か偽金かが、君という試金石を通してはっきりする。
それでは、問答をはじめようか。

カリクレス
ああ。

ソクラテス
君はいま、強い者、力のある者、優れた者を、同じようなものとして語ったが、これらは同義だろうか。

カリクレス
同じだ。

ソクラテス
自然において、一人(匹)の人間(動物)より多数の人間(動物)の方が強いはずだ。
そして、君が言うには、多数者が決めたのが社会の法であると。
さらに強い=優れたであるなら、多数者(強者)の法はすなわち優れた法であり、社会の法は自然本来の法においても立派なものとなる。
そうすると、平等を守ることや、不正をしないことが、単なる社会習慣ではなく、自然本来においても立派な(美しい)ことになる。
君は私が自然の法と社会の法を混同させると言ったが、これらは同じものであるという帰結になる。

カリクレス
ああ、あなたはまた言葉尻の些細な誤りをつかまえて大仰な問題にしようとする!
能力のない烏合の衆が集まったところで、有能な一人より強いとでも言うのか。
格闘家としても有能なあなたが、無能な幼児1000人と格闘しても負けはしまい。

ソクラテス
そう言うと思っていた。
では、一人でも思慮深い有能な者がいれば、思慮のない無能な無数の人間の上に立ち支配する。
それが強者であり優者であると言うのだね。

カリクレス
そう。
私の言う自然の正義とは、優れた人間、思慮ある人間が、凡庸な下らない連中を支配し、彼らより多く持つことだ。
その内容も寝食のような凡庸で下らないものではなく、ポリス(国家)についての深い思慮、それらを具体化する実行力やくじけない勇気、そういうものを備えた強者、優者が、支配者として君臨し、被支配者たちより多く持つ権利を与えられるのだ。

ソクラテス
では、自分自身に対してはどうなのかね。
他人を支配するように、自分を支配することもできるのかね。

カリクレス
あなたは何を言っているのだ?

ソクラテス
そんなに難しいことではない。
克己のようなものだよ。
自己の内にある様々な欲望や快楽に打ち勝ち、支配する者のことだよ。

カリクレス
なんという冗談を!
無能で間抜けなお人好しを、あなたはそんなに良い風に言うとは!

ソクラテス
なぜだね。

カリクレス
はっきり言ってやろう。
人間の正しい生き方とは、欲望を解放し、それを有能さ、勇気や思慮によって最大限にまで増幅させ享受することだ!
無能な弱者どもはそれが出来ないからこそ、有能な者を非難することで自分の無能を覆い隠し、欲望や放埓を醜いことだと罵り、欲望を抑える節制などを美化し正しいことだと言う。
しかし、結局のところ、こんな奴らは、欲望に従う勇気もなく、実行する能力も思慮もない、無能なバカの集まりなのだよ。
ソクラテス、あなたは真実を追究すると言う。
ならば、欲望と放埓それを獲得する力こそが人間の徳であり幸福、反対に、上品ぶった卑屈な奴隷根性の節制や道徳こそが人間の不幸、この事実をしかと見なければならない。

ソクラテス
君はいかにも徹底している。
常人であれば、世間を怖れ、口に出すことの出来ないことを、見事にぶちまけてくれる。
ならば、私からもお願いしておこう。
その徹底的な追求を最後まで貫き通し、人間がいかに生きるべきか、最後の答えが出るまで、私との問答に付き合っていただきたい。

カリクレス
ああ、いいとも。


終幕(507d~527e)

ソクラテス
私の述べたいことは以上になる。
賢者たちの言うところでは、天も地も、神も人も、すべてを結びつけるものは秩序や節度なのだ。
なぜ彼らが宇宙をコスモス(調和、秩序)と名付けたか分かるね。

カリクレス
ああ。

ソクラテス
また、君の言うように「不正を受けないこと」を望むなら、必然的に支配者や独裁者の側につかねばならない。
しかし、支配者は自分より優れた者を恐れ、排除しようとする。
あくまで自分の行動や考えに近い者や従う者だけを仲間にする。
支配者と親しくなれるのは、不正を行う彼らと似た品性を持ち、かつ隷属することに何の抵抗も感じないような主体性なき人間だけなのだ。
不正を受けることを恐れる少年は、若い時から支配者と同じものを喜び同じものを嫌うように自らを習慣付け、自分という人格を捨て支配者と同一化しようとする。
確かにそれによって「不正を受けないこと」という目的は達せられる。
しかし、「不正を行わないこと」は達成できないどころか、むしろそれを率先して行い支配者の色に合わせることでしか、自分の地位を確保できなくなる。
「不正を受けない」と言う目的は、やがて「不正を行う」という目的にすり替わる。
結局、それは私の言う最大の害悪(不正をする醜い心)に自分で自分を陥れることであり、不正を受けることを恐れるあまり、自分の心を殺してしまうことになるのだ。

カリクレス
何度も言わせてもらうが、あなたのような生き方をすれば、必ず彼らに殺されるだろう。
この忠告だけは、神に誓って、決して間違いではない。
身体を殺されるくらいなら、心を殺した方がまだマシなのではないのか?
だから私はあなたに弁論術を習えと言うのだ。

ソクラテス
人間の努力は、ただ長く生きながらえるためだけに向けられるべきものではないのだよ。
悪い心を持ったまま長く生きながらえるよりも、善い心を持ち、潔く生き潔く死んだ方がマシではないか。
どれだけの期間生き長らえられるかに汲々とし、くよくよ惜しみながら生きるよりも、死の定めや運命の神を信じてそれに任せ、その定めの期間をいかに善く生きるかに一生懸命になることこそが、真の男子たる者の仕事なのだ。
自分がたまたま住んでいる、世界の片隅の政治形態や支配者の生き方に自己を同化することが、最上の生き方であろうか?
もっと大切なものが他にあるのではないだろうか。

カリクレス
あなたの言うことには、確かに人を肯かせる何かがある。
しかし、私の本音といえば、多くの人々と同じように、やはりあなたの意見を承服することはできない。

ソクラテス
それは弁論家としての君の心の中にあるデモス(民衆)への迎合が、真実を見ることの邪魔をしているからだよ。
素晴らしい知識を持つ君が、徹底的にこの問題を私と共に考察し続けてくれたなら、きっと私たちの意見は一致するだろう。

カリクレス
私の述べることは理想ではなく現実なのだよ、ソクラテス。
あなたが述べる醜い心の下賤でつまらない連中に、あなたはいずれ処刑される。
まるでそれを信じてくれていないようだが、私が語るのは現実なのだよ。

ソクラテス
それは十分予期もしているし、覚悟もしている。
なんら意外なことではない。
苦しみを与える良薬よりも、快楽を与える麻薬の方に大衆は惹かれる。
支配者らは言うだろう。
「皆さん!ソクラテスという男は、子供や病弱な者たちを捕まえては、ナイフで切ったり焼きゴテを当てたり(手術のこと)変なものを飲ませ無理にひもじくさせたりベッドから出られなくします(投薬のこと)。私の方は、さんざんご馳走と快楽を提供してきたと言うのに、こんな男を放っておいてもよいのでしょうか。私たちは彼を告発し、処刑すべきなのです!」
私が治療を施した者たちが元気になって法廷へ戻ってきて、私の無実を証言してくれる頃には、私はもうこの世にはいないだろう。
もし、私の死が君の言うような弁論(おべっか)術の不足によるものなのなら、私は何の悔いもなく平然と死に臨むだろう。
死などというものは、臆病で無知な男でもなければ、何ら恐がるものでもない。
本当に恐ろしいのは、不正を犯したり、魂を損ねることの方なのだから。


[この数年後、カリクレスの予言通り、ソクラテスは告発され処刑されます。]

※最後に小さなおとぎ話(ミュートス)が語られますが、割愛します。また、最初にも書きましたが、あくまでこれは本書の内容を対話風にまとめただけであって、抄訳でも編集でもありません。ソクラテスもカリクレスもこんなセリフは語っておらず、ただまとめればこんな風になる、彼らならこんな風に言うだろうなという推測で書いたセリフです。


気になったものあれこれ





どんな心構えが必要か?

実は地球は寒冷化に向かっています
350年前はマウンダー極小期と言われてロンドンのテムズ川が夏場に凍っていたことが確認されています
これは太陽の黒点の学問です
地球から見える太陽の黒点の数と太陽エネルギーが比例しているのです
400年前後の周期で太陽エネルギーは弱くなり
今回は2028年頃から弱まり2030年から2041年まで11年間プチ氷河期が訪れます

そもそも大気中の二酸化炭素濃度をご存知ですか?

0.038%です
観測データが残っている250年間で
0.025%が0.038%になりました
ご自身でお調べ下さい


地球は温暖化していない
-正しい科学と政治に向けて-

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さいごに

何事も絶対はありえないし、言い切ることはできないけれど、実際そうなるとは限らなそうでも「もしそうなったときのために今何ができるか」を考え行動することは、有事にパニックにならないためにも予行練習として必要のことのように思う。

現代人は効率化のために生きて行くために必須であることを外注している状態だからこそ、そこを遮断されると危うくなってしまう。

もし東京が札幌ほど寒くなったとしたら…
もし日本が戦争当事国になったとしたら…
もし大きな地震がきたとしたら…
もしライフラインが遮断されたとしたら…

すべてに対応できなくても、今からでも「昔からの生活の知恵」を利用して「生命をつなぐ力」を蓄えることはできるのではないだろうか。

人とのつながりや自然とのつながりを改めて考えてみるときがやってきたのかもしれない。

ともあれ、悲観的にならずにおもしろがってやっていきましょ♪

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