お肉は食べていいのかい、ダメなのかい、d
南伝の仏典(部派仏教経典・パーリ経典など、とてもざっくりした言い方をすればタイなど東南アジアの僧侶が読んでいる仏典)から入った私にとって長らく謎だったのは、なぜ「肉を食べてはいけない」的な風習が日本に根強いのか、という点でした。
まずはパーリ仏典(ヴィナヤ・ピタカ、律蔵)で肉食について語られる部分を見ましょう。提婆達多(だいばだった)という人物が、仏教教団を分裂させようと、以下5つの事柄(五事)を提案し、却下される場面です。
修行者は、生涯にわたり人里を離れた静かな場所に住むこと
修行者は、生涯にわたり托鉢行によってのみ食べ物を得ること
修行者は、生涯にわたり糞掃衣(ぼろきれを集めたもの)のみを着用すること
修行者は、生涯にわたり屋外の樹木の下で過ごすこと(家屋には入らないこと)
修行者は、生涯にわたり魚も肉も食べないこと
このような提案をする意図は次のようなものでした。原典を所持しておらず、翻訳もできないので引用させていただきます。
沙門ゴータマとは修行者ゴータマ、つまりお釈迦様のことです。サンガというのは仏教教団のことです。
提婆達多は、なかなか頭の回る悪人として描かれています。あえて厳しい習慣を提案し、それを否定してもらうことで「このような厳しい規律を守る自分の方が優れているだろう?」と人々にアピールする作戦です。
そのような意図で、提婆達多が魚、肉食の禁止をあえて提案しているということは・・・
と、このようにお釈迦様は返されました。そうです、修行者の肉食は条件付きで許されていました。
肉食を許されている理由は複数あると思いますが、私が特に重要だと思うのは、あらゆる在家仏教徒に布施の機会を与えるという点です。つまり、漁や猟で生計を立てている人々にも等しくお釈迦様や弟子たちに布施ができるようにしたいという理由があったと思います。
これが仏の教えだという認識だったので、日本ではなぜここまで頑なに「肉を食う=悪いこと」のように扱われているのだろうか、と疑問に思っていたのです。
そして、またしても私の疑問に答え続ける大般涅槃経が登場します・・・。いかに日本における仏教の認識に影響を与えているお経であるかがわかります。
《今日から弟子たちに肉を食べてはならないと告げよう。肉の布施があったならば、その肉に対して我が子の肉のように思うようにと告げよう。
(中略)
今日から弟子に一切肉食を禁ずる規則を制定しよう。
迦葉(かしょう)よ、
肉を食べる者は、歩いていても、止まっていても、座っていても、寝ていても、肉の臭いが漂い、あらゆる人々を恐れさせる。》
・・・何か変じゃないですか。言っていることが前とは違うじゃないですか。そんな疑問を持った弟子の迦葉は(中略)の部分でちゃんと質問しています。
《お釈迦様、なぜ以前(殺されるところを見ていない、自分のために殺されたと聞かされていない、自分のために殺されたと疑われないという三点において清浄な)三種の肉を食べても良いとおっしゃったのですか。
迦葉よ、三種の肉についてはそれぞれの理由に応じて定めたのだ。》
というなんだかよくわからない問答になっています。他の部分にもあれこれ書いてあるのですが、はっきりとした具体的な答えがありませんし、なんだか話の流れが不自然です。
怒られるかもしれませんが、この部分は提婆達多と同じ意図を持って作られた部分ではないかと疑ってしまいます。つまり、「このような厳しく清らかな行いを守る大乗仏教教徒の方が(緩い規則しか守っていない部派仏教教徒よりも)優れているだろう?」とアピールする手段に見えてしまうんですよね。
怒られるかもしれませんが、まあしょうがないですね。そんな風に見えちゃうわけですから、私には。
結論
というわけで、結論。肉、食べてもいいです。もちろん食べないことも悪いことではないので、それぞれの文化や風習などに従って食べないということも正しい選択です。