毛穴からお経が入ってくる???
いつの日だったか、正信偈をお勤めするのも面白さがあるが、内容もさまざまな学びにつながって面白い、みたいな話をしていたとき、ある方に次のようなことを聞かれました。
「お経は意味がわからないとダメなんでしょうか。聞くだけではだめなのでしょうか。お坊さんから『わからなくても大丈夫、毛穴から入ってくる』と言われたことがあります」
正直「毛穴・・・?」と困惑しましたが、「意味がわからなくてもダメということはないんですが、わかったらさらに楽しいということです」というようなことを答えました。しかし、毛穴の話を聞いたのはこれが最初で最後ではありませんでした。たまに法話などで出てくるので、それ以降たびたび耳にすることになったのです。
一体誰がそんな表現を考えたのだろうか。毛穴に入るとはどういうことだろうか。入ったからといってどうなるのだろうか。そんな風にずっと思っていたのですが、最近とうとう毛穴の正体?がわかりました。
毛穴の正体
太陽の光や月の光が最も明るく、他の光はそれらに及ばないが、大きなる悟りの光も同様なのだ。さまざまな教えや、瞑想や、光明の中で最も優れている。他の教えや、瞑想や、光明は及ばないのだ。なぜなら、大いなる悟りの光は、人々の毛穴に入っていくからなのだ。悟りを得たいという心を持たない人々であったとしても、悟りへのきっかけを作るのだ。そのため大いなる悟りと呼ばれているのだ。
「お経が毛穴から入ってくる」というのは、ここが元になっているようです(大蔵経DBで「毛孔」を検索すると大量にヒットするので他にも存在していてもおかしくないですが)。
個人的に注目する部分として、まずは大いなる悟り(大般涅槃経の内容から仏ともいえる)のはたらきを光と表現している点です。これは阿弥陀仏の光明を重要視する浄土三部経を読んでいくうえで、光明の性質を理解する支えになります。
また、悟りを得たいという心を持たない人に悟りのきっかけを作るという点です。理屈の上では、そもそも発心(悟りを求める心を起こす)がないと、悟りに至れません。スタートしなければゴールにたどり着けるわけがないのです。そういった悟りを得たいという心を持たない人にも仏のはたらきかけがあるから、誰でもスタート地点に立つことができる(ただし自分の悪を一切顧みない一闡提は除く)と説いている点は非常に興味深いです。
さらに、毛穴ですから、目、耳、鼻、触覚、味覚が機能していなかったとしてもそのはたらきを受けることができる、私たちの感覚・自覚を超えたところで仏のはたらきが機能している、本当に誰にでもはたらきかけている、ということが表現されています。
「毛穴・・・?」という困惑が第一印象でしたが「よく考えられた表現だなあ」と原文を読んで誠に感服いたしました。
と同時に、わざわざ言葉という形にされている以上、経典や法話は読んだり聞いたりして理解するものであって、毛穴から入る仏のはたらきとは違うんじゃないの?とも思っちゃいましたけど。