環は警察官としての日常に戻る。だが、事件がそれを許さない。或いは『フワつく身体』第三十五回。
※文学フリマなどで頒布したミステリー小説、『フワつく身体』(25万文字 366ページ)の連載第三十五回です。(できるだけ毎日更新の予定)
初回から読みたい方はこちら:「カナはアタシの全て……。1997年渋谷。むず痒いほど懐かしい時代を背景にした百合から全ては始まる。」
前回分はこちら:工事中の現場から首つりの仕掛けが見つかったという。だが、環はもう事件に関わらないと決めていた。或いは、フワつく身体第三十四回。
『フワつく身体』ってどんな作品?と見出し一覧はこちら:【プロフィール記事】そもそも『フワつく身体』ってどういう作品?
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■二〇一七年(平成二十九年)十一月十六日
環は日常に戻っていた。
どこか気が抜けたようで、渋谷駅の警らをしていても時々フラつくのを自覚する。
私の中のどこかが壊れてしまってはいないか。
目に見えている光景は、梢子が殺される前と何一つ変わりはなかった。
終わることのない駅舎の工事。改札を往来する人の群れ。
雑踏から不意に、観光客の中国語が紛れて聞こえてくる。
その全てが、見慣れたもの、聞き慣れたもの、であったにも関わらず、それまでにはなかった圧のようなものを感じる。
圧を感じるのは、向こうが変わったのでは決してない。
私が弱くなったのだ。
赤城と組になりながら、警らを続けている。視線の先には、コインロッカーがある。その前で、ロッカー屋の男がモンスターエナジーを飲んでいた。一気に飲み終えて、アキュアメイドの自販機の横についたゴミ箱に捨てる。
この駅の中のありふれた光景だ。
大丈夫だ。
まだ、戻りきれていないだけだ。じきに慣れる。
環は自分に言い聞かせた。
羽黒からは、捜査に戻って欲しいと言われたが断った。神奈川の事件も全容が見えてきて、刑事ではない人間まで引っ張り出して来なければならないほどの人不足ではなくなっていた。
夕子が自殺未遂に及んだのは、あくまでも捜査本部の責任だった。
確かにそうだろう。あのような事実を突きつければ、自殺の恐れも選択肢の一つに入る。羽黒も恐らく見越してはいただろう。
癌の再発のため体調が悪く、弁護士から要請が出ている以上、長時間の取調べはできない。神奈川の事件に人をとられて人不足という要因と、恐らくこのような状況下で、より羽黒の功名心がはやったのか、供述を急がせたかった。
だが、その日のうちに夕子が落ちなかった。
一旦、帰宅させるという選択をとらざるを得なかったなら、見張りはもっと念入りにつけるべきだったのだ。地元の警察に任せるのではなく。
あるいはもっと固めて、逮捕状を請求しておけば良かったか。
環の失態と言えば、GPSの件もある。あれは上に上げないと言っていたが、それで通るのか。何らかの処分が下るかもしれない。微妙な線だと思った。
「警察辞めて、万引きGメンとかにでもなろうかねえ」
環はそうつぶやいたが、雑踏の音が大きくて、赤城には聞こえなかったようだ。
それから、幾つか、羽黒から捜査の進展について聞いていた。もう関わらないと言っているのに、いちいち連絡してきて教えてくれるのだ。
夕子には改めて逮捕状が出た。横浜駅の西口の屋外にあるコインロッカーから回収した荷物の中に、夕子が持っていたと思われるキャリーカートがあり、そこから夕子の指紋とカサブランカの花粉が出たことが決定的な証拠になった。
ただ、夕子は黙秘を貫いていると言う。夕子が口を開いたのは、自殺未遂をした後、病院で環と話した時だけだと言う。
それから、恵と環が会って、翌日に夕子が恵の勤める美容カウンターに現れてから、梢子が殺されるまで九日ほどタイムラグがあったことについて。
Kと名乗った人物と梢子とのやり取りは、ある大手出会い系アプリで行われていたことが分かった。
Kと梢子のやり取りは、夕子が恵に会った日の夕方から始まっており、Kは執拗に会おうとしていたことが分かったと言う。当日は関東地方に台風二十一号が接近して大雨が降っており、それでも会おうと持ちかけていたようだ。
さすがに交通機関が止まり始め、それでも会おうとするのは不自然と判断したのか、次に会える日を探し始めた。コールセンターのシフトや子供の学校行事などがあり、十一月に入ってからになると梢子は答えていた。
環に返したLINEの内容と同じだった。
ハロウィン当日も子供たちと過ごしたいと梢子は返信していたが、途中から気が変わって会うことになった。
理由は分からないと言う。
ハロウィンに何も用意できない自分が惨めだったのか、翌日にKにもらうはずだった三万で子供たちに何かしようとしたのか。
出会い系アプリ内のサクラではないことを証明するため、梢子はツイッターの裏アカウントに誘導しようとする。
だが、Kはツイッターの方が出会い系アプリよりも足がつきやすいと思ったのか、躊躇している様子が伺えたと言う。
Kは急遽ツイッターのアカウントを作り、梢子とやり取りをした、それが増村に見せてもらってから以降の文面に繋がっているとのことだった。
Kが使用していたスマホの電話回線の契約者、大宮の元ヤクザの金沢だが、しばらくゴネていたものの、金に困って回線を売ったことは認めたようだ。
認めるのに時間がかかったのは、特殊詐欺の末端のようなことに手を出さなければ、生活が成り立たなくなったことが、プライドとして許せなかったようだ。
それから、
「これが最も重要なんだ。深川が聞かないと言っても教えなくてはならない」
昨日、電話の向こうで羽黒が言った。
神奈川の事件が落ち着いて来て、もう一度良く、犯行現場であった梢子のミニバンを調べ直したそうだ。
サイドブレーキのバーの脇の僅かな隙間にレシートが挟まっていた。
日付は二〇一七年十月三十一日、午後十一時二十五分。
ファミリーマート道玄坂上店のものだった。Kからのメールで最初の待ち合わせ場所に指定されていた場所だった。購入品はセルフサービスのコーヒーとチョコレート。一度車を降りて買い物をしたのは、眠かったのだろう。
そのレシートに水滴が付着して乾いたと思われるシワがあった。そこから、DNAが検出されたと言う。通常、汗からDNAを検出することはできないが、例えば頭から落ちた汗の場合、フケが紛れていれば可能である。
時間的に犯行に関わった人物と見て間違いないだろう。
その人物の性別は
男、
であったと言う。
確かに男性の力ならば、ヘッドレストの後ろから梢子を絞め殺すことも可能だろう。
だが、加奈はどこに行ったのだ。犯行に協力した夕子と被害者の梢子を結ぶ線は、加奈でしかありえない。
その男性というのはどこから現れたのか。
無論、熊本にいたという梢子の元夫でもありえない。
だが、もう環はいくら考えても仕方がないと思った。
今はただ、目の前の職務をこなすだけだ。
午前六時、渋谷駅の警らが終わる。
酔っ払いの保護をしたぐらいで、環にとっての日常は過ぎて行った。日報を書き、勤務を終える。
環は、私服に着替える。ここ数ヶ月は余計なことをして、出歩いてばかりいたので、服を新調できなかった。今日出勤に着てきた、襟なしの白いブラウスは七分袖でもう寒いし、その上に羽織ってきた昨年買ったカーキ色のジャケットは型崩れし始めている。
新しい服を買わなくては。冬も近いからそろそろコートも買わなくてはならないかな、とあまりにも普通のことを考えた。
それでいいんだと思う。
環は私物のスマホを見た。
誰かからメールが来ていた。どうせスパムだろう。一応開いておく。
「発信者 タチバナカナ
件名 なし
愚鈍な警察よ、まだ私を見つけられないか。
この計画は所詮、不完全なまま終わる。
計画は、時間の波に潰され、透明になって消えてゆく。
消える前に、ボクを捕まえてみたまえ」
「何なんだよこれは!」
そう叫んで、環はスマホを叩きつけた。床に投げつけられたスマホのモニタには、蜘蛛の巣のような割れ目ができた。
もう関わらないと決めても、向こうが私を開放してくれないのか。
環が捜査本部に報告すると、メールアドレスは海外のフリーメールサービスだった。
「情報開示できるかな、ここ」
と増村が言った。
環には計画は不完全、という言葉が気になっていた。
あらかじめ不完全であり、不完全なまま終わるしかない。
全てはもっと単純な構造をしていたのではないだろうか。そして、加奈の失踪から始まった一連の出来事はもっと場当たり的なものではなかったのだろうか。
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・次回から解決編最終章。一話300円×5回です。よろしくお願いします!
続きはこちら:第三十六回(有料)
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読者の皆様へ:
※この話はフィクションであり、現実の人物、団体、施設などとは一切関係がありません。
※警視庁の鉄道警察隊に渋谷分駐所は存在しません。渋谷駅、及び周辺でトラブルにあった場合は、各路線の駅員、ハチ公前の駅前交番、渋谷警察署などにご連絡ください。
※現在では、一九九九年に成立した児童買春・児童ポルノ禁止法において、
性的好奇心を満たす目的で、一八歳以下の児童と、性交若くは、性交類似行為を行った場合、
五年以下の懲役若くは五百万円以下の罰金、又はその両方を併科されます。
本作品は、こういった違法行為を推奨、若しくは擁護するものでは決してありません。
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