【中国日誌】819日目 23.11.18

昨日の中国教室からの帰り道。地下通路へと続くエスカレータにのり、いつものように何気なく、していた。すると、目の前の前に居た、60歳くらいの女性が、突然、前へ向かって倒れた。私は、その時、傍観者になった。とても、冷静に、客観的に、なった。主観は、捨てた。その女性のすぐそばには家族と思しき、中年の男女が二人いた。故に、片方の男性が、倒れた女性の、両脇に手を通して、必死に抱きかかえようと、していた。私は、その時、すこし、主観的に成っていた。助けるべきか、と。私は、中国語が、上手くは話せない。中国の、救急車をどう呼ぶか、だという、事情を、あまり知らない。そんな自分が、助けに入ったところで、大した、ことはできない。むしろ、足手まといになる。そこまでは考えていないが、行動しなかった、理由を付けるとしたら、私の弱い、心理面からすれば、こんなところであろう。ほかにも、彼女を助ける人が、そばにいたことも、特に、動こうとしなかった、理由として、挙げられる。私は、エスカレータから降りた後、特に、振り向くことなく、そのまま、その場を、後にした。こんな私は、冷たいだろうか。薄情だろうか。罪悪感が、心を、突き刺すのである。気にしないようにしても、気になってしまう。何かできたことは、あったのではないか。もし、周りに助ける人が、居なかった場合、私は、どうすべきなのだろうか。私は、おそらく、女性を抱えて、安全な場所へ、運び、私が、中国語があまりできないことを近くの人に伝え、助けを求める。そして、中国の人に、電話を掛けてもらって、応援が来て、落ち着いたら、ようやく、帰るのであろう。私は、あまりこういうことに関わりたくない、という、この心が、もしも、大切な人の命に、関わることになると考えると、やはり、苦しくなる。脆く崩れた私の道徳心、私は大事な時に、はたして力を発揮できるのだろうか、と、実績のない私は、少し、不安になる。ただ、私が、安心したのは、抱きかかえられたその女性は、エスカレータから降りるときには、意識を取り戻し、脱げた片足の靴の心配をしていたことである。大事にいたらなかったことに、感謝を。

朝5時半に起き、支度と日課。ピアノを2時間、12時に出発、13時から2時間、中国教室。その後、ふらっと歩きながら、ご飯の買い出し。しかし、いつも買っていたところは、もうなくなっていた。なので、あきらめて、途中のコンビニでご飯を買うことに。そして、地下通路へ降りるエスカレータで、冒頭の事件。その後、ご飯買って、家で帰って食べて、19時に本を読んで、眠くなったので、19時半に寝た。

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