My slow food journey-北の国から- 昆布漁師 加藤忠さん
11月が始まった1日。
わたしは加藤のおじさんに、冬の昆布を提供してくれたお礼と、今年の昆布漁についてお話を聞きたく、コンタクトを取った。
加藤さんのお家は、100年以上続く昆布漁師のお家で、加藤のおじさんも、中学の時から家の仕事を手伝い、道産子と一緒に働いていたと言う。
例年、6月の納沙布岬から3.7km先の北方領土・貝殻島周辺の棹前コンブ漁から始まり、7月、8月の夏コンブ(ながコンブ)、9月の厚葉コンブ、10月から猫足コンブ漁と続き、冬から春にかけては、岸に寄ってきた昆布を拾う「拾い昆布」が行われる。
今年は、ロシアのウクライナ侵攻により、日露関係が悪化。貝殻島には出漁できないかと思った。と、おじさん。
3週間遅れで漁に出られることが決まったが、その頃には、今年の昆布漁に見切りをつけ、他の漁を始める漁師さんもいたそうで、昆布漁に出た人は例年に比べ少なかったのだそう。
ただ、加藤家は100年以上続く昆布漁師のお家。
昆布漁一本でやってきたのだ。
「昆布は生命線」と語る加藤のおじさんは、漁に出られるその時を、待つしかなかった。
また、ロシアから請求される貝殻島昆布漁の入漁料 1億数千万円を漁に出る組合員で割るので、昆布漁に出る人が少なかった今年は、1組合員あたりの負担が特段、重くのしかかったという。
そして、今年はロシアの臨検も多かった。
加藤のおじさんによると、今シーズンだけで10以上も臨検をされ、持ってる荷物の検査、不正をしていないか入漁許可書の確認など徹底的に調べられた。
調べられるだけならまだしも、銃で撃たれるのではないか、拿捕されるのではないか、、、昔のトラウマが呼び起こり、不安と恐怖が混じり合う複雑な心境での漁だった。
しかし、それ以上に、貝殻島へ出漁出来たこと自体が1番の喜びだった。という。
貝殻島は宝島。昔から、東に行けば行くほど、柔らかくて美味しい昆布が取れると言われている。それは今も変わらない。と、おじさん。
1963年に、ロシアとの民間協定が締結。安全に貝殻島へ漁に行けるようになった。
それまで、ロシアと日本の間には取り決めがなかったので、加藤のおじさんも真夜中に海に出て、ロシアの目を盗んで漁をしていたという。見つかって逃げる時に、コルク弾を撃たれたり、船のエンジンが止まったこともある。
そんな危険は承知済み。その危険以上に、漁師にとって貝殻島という漁場は魅力的なのだ。
おじさんのお話を聞いていると、貝殻島で漁をすることは、いい昆布の漁場だからと言うだけでなく、「男のロマン」があるから、というのもあるのではと感じる。
いや、むしろ「男のロマン」がある、という理由が大きいかもしれない。
だからこそ、1963年は浜の人にとって特別な年になったに違いない。
おじさんはぽろっとこう言った。昆布は、地域が元気になるためには欠かせない存在。俺は昆布を取ることしかできない。料理はさっぱりだ。まいちゃんのばあちゃんみたいに、料理する人に繋がないと。店も全部繋がってるからね。と。
加藤のおじさんから発せられた言葉は、「食べること」を通して、
漁に出る人、それを調理・加工する人、食卓を囲む人、役割違う人々の間に、確かな繋がりを感じさせてくれた。
そして最後におじさんはこう言った。
今年は辛うじて、3週間遅れたけども、貝殻島へ出漁できた。
でも来年はどうかわからない。
もしかしたら、この先、もうずっと行けないかもしれない。
今年で貝殻島は行けるのは最後だったかもしれない。来年行けるかどうかは、日本とロシアの関係性に懸かっている。
日本も、ロシアに対して友好国として、仲良くやってくれればいいんだけど… と、呟いた。
そして、おじさんにとって、本当に特別な、宝物同然の、今年の「貝殻島産棹前昆布」を破格で譲ってくれた。
もちろん毎年貝殻島産の昆布はとっておきなのだが、今年はロシアとウクライナのことがあり、漁に出られたこと自体が奇跡的だった。そんな状況で採れた昆布なのだ。
(おじさんは私が差し出した気持ちばかりのお金を断固として受け取ろうとしなかった。)
この特別な貝殻島産棹前昆布は、猪爪商店として、「平和の祈りの食べ物」としてリリースしていきたい。
またおじさんのこの笑顔が見たい。
どうか、おじさんのこの笑顔を来年も見るためにも、日本とロシア手を取り合える日が来ますように。世界が今よりも平和になりますように。