意識と心
デイブ・フロム・ショーを聞く。You-tubeで。LIVEで聞くのは放送時間的に無理なんで。デイブは面白い。ネガティブでオカルティズムで。天使の声を聴いたり、幽体離脱したり。でも、常識人で。先日の放送(「陰謀オカルト・ウェンズデー」のコーナー)で、パーソナリティーのアリ森住が、「欲しいものを手に入れても幸福になれないけど、欲しかったものではないものですごい幸福になったりする」というようなこと言っていた。それを聞いて、ふっと閃いた。ああ、意識と心って別もんじゃないのかと。脈絡あるようでないような。でも、そう思った。意識っていうのは常にある。寝てる時ですら、夢を見ていたりすると意識はやっぱりある。一方、心ってやつは、くるくるくるくる踊っていて、定まらない。意識っていうのは確かにあって、それが自分なんだと感じている。心っていうのはその周りで次々姿を変えている思考?それは、もしかしたら、肉体によって作りだされているものなんじゃないか。意識は存在していて、心は作られては消えるもの。心は肉体があればこそ。何かしら感じたもの、欲望、喜怒哀楽、それらによって醸される情動。意識はそれを見ているもの。意識は肉体に宿って、心を見ている。幽体離脱ってのは、意識が肉体から出てしまった時のこと。とすると、意識は、何にでも宿ることができるのかもしれない。今ある肉体ではなく、他のものに。生物でも、無生物でも。木や石。山や海。すべてのものに意識は宿ることができるのではないか。日本の八百万の神っていうのは、いろいろなものに宿っている意識なのではないか。それが神ならば、死んだ人の意識も何かに宿れば、神になるのではないか。神社には亡くなった人を祭ったものが多くある。亡くなった人の意識はその肉体を出て、なにがしかに宿り、神になった。そもそも、人の意識は何でも具現化する力を持つ(といわれている)のだから、もとから「神」としての素養がある。お願いを聞き届けて具現化する。知っている者なら、なおさら聞いてくれるのかも(だから、神社にお参りするときに、自分の住所氏名を言うことが推奨されるのかも)しれない。ならば、ご先祖に祈るのも、ご先祖が宿っている何かに祈ることになるのかもしれない。仏壇やお墓でお守りくださいと祈るのも、そういうものなのかもしれない。もう少し考えてみようと思う。
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