牛丼屋にて
「おい君、これ本当に大盛の牛丼か?」
店内にトゲのある声が響き、私は反射的に漏れそうになった舌打ちをこらえた。
またこの手の客だ。大盛の規定量が変わって以来増えたのだ。これは大盛にしては量が少ない、前はもっと肉が多かったぞ、と騒ぐ客が。
しかしそんなことを言われても、私は牛丼屋でバイトをしている分際だ。露ほども思っていない謝罪の言葉を口にして、その場を乗り切ることくらいしかできない。
不本意だけど、今回もそうするか・・・。
そう思って客の方を振り返ると、客は明らかに怒っている様子でこう怒鳴った。
「おれが頼んだのは大盛の牛丼なんだよ。でもこれどう見ても大盛の牛丼じゃないよね。大森南朋だよね」
なんだって?私は耳を疑い、客の指さす方向を見る。
するとそこには、確かにいた。どこか憂いを帯びた目でこちらを見つめている、大森南朋が。
「し、失礼しました!すぐに新しい大盛の牛丼をお持ち致しますので!」
私は声を張り上げる。
この客のオーダーを取ったのは、たしか先月入ったばかりの和田君のはずだ。まだ新人だから仕方ないよね、と言いたいところだが、これはさすがに間違いすぎている。
バイトリーダーとして、彼にはしっかり注意をしなくてはならない。
私はこみ上げる苛立ちを抑えながら、レジ前にいる和田君に詰め寄った。
「和田君、6卓のオーダーミスったでしょ。お客さん相当怒ってるよ。はやく取り替えてきて」
すると和田君は、驚いたようにこちらを見つめ返した。
「え、おれなんかミスしました?」
何をとぼけているのか。私は大きくため息をつく。
「ミスもなにも、大ミスだよ。うっかりってレベルでもないよね。あんた、大盛の牛丼と大森南朋間違えたでしょ。こんな数奇なミスやらかした奴、歴代いないよ。ほら、あそこ。大森南朋、めちゃくちゃこっち見てる。さっさと取り替えてきてよ」
和田君は、口をぽかんと開けている。「誰ですか、あの人」
「誰って、あんたが連れて来たんでしょう?違うの?」
「知りませんよ、あんな人。先輩が連れて来たんじゃないんですか」
和田君はとぼけているわけではなさそうだった。
じゃあ、誰が?なぜ?助けを求めて厨房にいる店長を見やるが、店長は牛丼の盛り付けに夢中でこちらの騒動には全く気が付いていない。
とりあえず早く、大森南朋と、大盛の牛丼とを取り換えなくては。私は6卓にかけより、大森南朋の右手をつかんだ。
「すみません、厨房に行きましょう!」
すると大森南朋は、ゆっくりとかぶりを振って、静かにこう言った。
「もう、手遅れだよ」
もう、手遅れだよ。大森南朋は確かにそう言った。意味が全くわからない。何に対してのせりふなんだ?全てが理解不能、脳内の思考回路が音を立ててショートする。
言葉を失った私は、呆然とその場に立ち尽くした。
和田君も、呆気にとられたように大森南朋を見つめている。
怒っていた客も、ようやく事態の異常性に気が付いたのか、大森南朋と私とを交互に見つめながら黙り込んでしまった。
他の客も、牛丼を食べる手をとめて、こちらの騒動を固唾を呑んで見守っている。
そして大森南朋は、悲しそうな表情で、どこか遠くを見つめている。
店内には、沈黙だけが流れた。長い長い、沈黙だった。
その間に、地球温暖化はみるみる加速していった。
氷河は崩れ、島は沈み、森は焼け、行き場を無くした野生動物たちは次々に絶滅していった。
オゾン層は破壊され、世界中に酸性雨が降り注いだ。その結果溶けて眼窩が空洞になった銅像は、大森南朋と同じ方向を見つめて動かない。
店内にはまだ沈黙が流れている。
気候はうねるように変動し、ある町は川の氾濫で流され、ある村は干ばつで枯れてしまった。
海面上昇によって積乱雲は増加し、世界中で雷鳴が鳴り響いた。
至る所に次々と雷が落ちていく様子は、怒り狂った神が、無差別に人類に鉄槌を下しているようだった。
店内にはまだ沈黙が流れている。
地球のあげる悲鳴は日本にも轟いていた。
汚れた空気は都市から都市を埋め尽くし、臨時ニュースで騒がしかったテレビやモニターの映像も、やがて全てが砂嵐に変わった。
そしてついに、ビル群の重みに耐えきれなくなった大地は地響きと共に張り裂け、店内にいるわたしと大森南朋とを引き離した。
足元が崩れおち、暗闇へと身体が傾いていく。そんな中私はふと、あることに気付いた。
ああ、あの時大森南朋はどこか遠くを見つめているようで、あんがい近い未来を見つめていたのだな、と。
流れゆく土砂が、塵になった牛丼屋をゆっくりと飲み込んでいく。