# 36 悩める人間
次に、挙げるのが、ヨーロッパの修道院を巡る話だ。テレビは神に身を捧げ、禁欲の生活をする修道士、修道女に畏敬の念を抱く様に作られていた。だが、気になったのは、豪華な壁画や彫刻の数々、何か質素な生活とは違う。
調べて見ると、修道院はトップが教皇の指名した貴族であり、吸い上げた金をローマ教皇に上納する支部の役割を果たしていた。
中世ヨーロッパの修道院の土地所有は想像を絶する。
イングランド全土のほぼ4分の1が、大小800あまりの修道院の所有になっていたといわれ、そこからの収益は国家収入に匹敵する莫大なものであった。
16世紀は近代国家の萌芽の時代で、近代国家の誕生とともに、各国は経済的な理由から自国の富がバチカンに流れることを良しとせず、それぞれの地域の教会が、ローマと絶縁することを積極的に後押しした。そこには、壮絶な戦いが繰り広げられた。3銃士はそんな渦中の小説である。
ザビエルは日本にキリスト教をもたらしたし、多くの殉教者を出したことから、神聖化されている。しかし、ザビエルが所属したイエスズ会は、ローマ教皇の新撰組とも言われて、植民地支配の突撃部隊と言われている。日本も狙われていただろう。
色々考えると、報道とはかけ離れていて、それは実は盲目的に信じている表層的な事を表現していて、本質からかけ離れているのではないかと思い始めた。
では本質に迫るにはどうすれば良いのだろうか?
そこに「無知の知」と言う言葉が脳裏に浮かび上がる。
哲学の父とも呼ばれるソクラテスは「無知の知」という考え方を基本とし、「知らないこと」よりも「知らないことを知らないこと」の方が罪深いと言う。確かに、知らない事を知らないのは、謙虚さの否定に通じ、自己中心に通じる。理性的では無い。
小難しい事は分からずとも、無知でも、人は良いことをし、理性的になる本能が備わっている。向こう3軒両隣の庶民が助け合いながらの人情ある暮らしぶりを上方落語は上手に表現している。庶民が本能的に、理性的に成れるし、中途半端で知ったかぶりをする生半可な上から目線の知識人より理性的で居られるということなのだ。人間は本能的に賢いのであり、本能は知ったかぶりをする中途半端な教養を凌駕すると言う事になろう。
mediaは報道に先立ち、「無知の知」からゼロベースで、目線を地上に引き摺り下ろして、スタートしてもらいたい。影響力の大きさを自覚してほしい。
翻って、世界中に充満している分かったつもりは悲惨な戦禍をもたらしている。そんな戦争を扇動する人は、無自覚なmediaを巧みに操作して思い通りにしているはずだ。
物事を中途半端に捉えて、知ったかぶりをしている人を味方につける技術に長けているから。
(小難しい話でした)