
登山に必要な体力って何?
当時40代の半ばだった僕は、前穂高岳から奥穂高へと続く稜線、いわゆる吊り尾根ルートを歩いていた。同行していた高校生の息子はずっと先にいて、ときどき岩場に腰掛け、遅れる僕を待っていた。へとへとになってなんとか足を前に進めながら、僕はこの日起こった事を振り返っていた。
この日は早朝に岳沢小屋を出発、急な崖を登り続けた。足は痛み、息があがり、少し体力の限界を感じていた。中継点の紀美子平で荷物を置き、最後の崖へと向かった。少し違和感を感じたのは、丁度その頃だった。登山道には、所々木の枝が立ちはだかっていた。足場の土はやわらかく、すこし滑りやすかった。正直もっと早く気付くべきだった。ただスマホのGPSで、現在の位置を確認するだけでよかったのだ。しかし頭が朦朧とし、行動をおこすことが煩わしく、なんとなく流れに身を任せていた。いよいよ急登にさしかかったところで、緩い足場に足をすくわれ、前に倒れこんだ。
”この道、絶対おかしいよ”
息子の一言でふと我に返った。我々は正規のルートをはずれていたのだ。ところが実際の僕は、浮いた砂利に足を取られながら、必死に先に進もうとしていた。おそらく遭難するのはこんな場面なのだろう。
何でこんなことをしてしまったのか?
自責の念に駆られ、「安全な登山とは何か」に思いを巡らせた。その時ふと、こんな考えが頭をよぎった。
やっぱり一番大事なのは、体力じゃないのか?

安全の要は体力
安全に登山を楽しむのに、必要な条件とは何でしょうか?
豊富な経験、周到な計画、十分な装備。
全部とても重要です。しかしこれらよりもっと重要なもの、それは「体力」ではないでしょうか?このことを納得してもらうために、まずは2022年の山岳統計を見てみましょう。
遭難原因は道迷いが最多(36.5%)で、転落・滑落(19.3%)、転倒(17.2%)と続く
年齢は70代が最多(23.8%)、60代(20.5%)、50代(16.2%)と続く
冒頭のエピソードは、この統計の実情を如実に表しています。つまり、現役陸上部で体力のある息子は、冷静にルートを見極め、不安定な足場でも着実に歩を進めているのです。体力に余裕があれば、冷静な判断で道迷いを未然に防ぎ、安定した身のこなしで怪我を予防することができます。

登山に必要な体力とは?
具体的にどのような体力が求められるのでしょうか?
「体力」には3つの側面があり、①筋力、②心肺機能、③エネルギー代謝に分かれます。陸上競技で求められる体力も、短距離(100m)なら筋力、中距離(800m)になると心肺機能、長距離(42.185km)ではエネルギーを持続させるスタミナが中心となります。登山は様々な局面があるため、これら3つの要素のすべてが求められます。
① 筋力
下りで足がパンパンになる。岩場で体がフラフラする。これらは、下肢や体幹の筋力不足が原因です。バーベルを用いたスクワット、デッドリフトが有効です。特に登山では、自宅でもできる自重のブルガリアンスクワットやワンレッグデッドリフトがおすすめです。
② 心肺機能
登りで息が上がるのは、心肺機能の不足です。心肺機能といっても、肺の酸素取り込み量が不足することはまれで、足りなくなるのはおもに心臓の血液供給能です。1心拍あたりの拍出量が少ないと、どうしても心拍数をあげざるを得ず、運動を維持できません。
心肺機能を上昇させるには、高強度の運動負荷(心拍数110~130回/分)を20~30分間行います。息が上がるまで追い込むことが重要で、ランニング、水泳、バイクなどがおすすめです。登山が目的なら、クライムミルも有効です。
③ エネルギー代謝
長時間の山行で動けなくなる、いわゆるスタミナ切れはエネルギー代謝の障害です。糖や脂質を含む行動食を、エネルギー源としてしっかりと摂取することはとても重要です。しかし筋肉は、これらのエネルギー源をそのままの形で利用することができないのです。つまり、こうしたエネルギー源は細胞内のミトコンドリアに取り込まれ、ATPと呼ばれる物質に変換して、はじめて利用されるのです。
エネルギー代謝効率をあげるには、たくさんのミトコンドリアが必要です。具体的にはやや低強度(心拍数80~100回/分)の運動負荷を1時間以上かけて行うことが有効です。会話ができる程度の運動を長く続けることが重要で、ウォーキング、ジョギングなどがおすすめです。
日頃の鍛錬が、いざという時の命をまもる
もちろん頻繁に山を登ることで、十分な体力を身につけることができます。しかし、通常はそう何度も山に通えるわけではないので、日頃からこうしたトレーニングを欠かさないことが大切だと思います。