
ビフォア/アフター
「雨、大丈夫そう?」
そう尋ねると、あの人は決まって
大丈夫。という。
傘が嫌いなあの人。
「そんなには濡れないよ、大丈夫。」
そう言ったくせに、灰色だったはずのジャケットは、ダークグレーになっていた。
「近いし迎えにいったのに。
相合傘したかったな。」
冷蔵庫のドア越しに声をかける。
今日はもうこの卵を、使い切らなくちゃいけないんだった。
タオルで頭を拭きながら、こんなはずじゃなかったのにと苦笑しているのが分かる。
「近いけどさ、寒いし暗いから、わざわざ
出てきてもらうのもな、と思ったんだよ。
あー、寒ぅ。今日のご飯何?」
***
夫は、わたしに優しい。
いつももっと優しくしてよと子供みたいに言ってしまうけど、本当はもう充分すぎる程与えてくれてるのは分かっている。
4年程前。
わたし達夫婦に、ある辛い出来事が起こった。
人様に言うような内容ではないし、2人の中では乗り越えて、もう終わった事として処理されている。だけど当時は、現実とは思えない程の闇の中にいた。どうやって仕事をこなしていたのか覚えていない。毎日毎日誰かが泣いていた。彼、わたし、彼の家族、わたしの母。
彼に至っては、もうこのまま消えてしまうのではないかという程危うかった。
話し合って泣いて責めて許して謝って励ましてなだめて奮い立たせて諦めて決意して。
沢山の感情に支配されながら、2人で何とか立ち上がって力なく笑い合った。
もう2人には、お互いしか残っていなかった。
それまで、いつでもオープンで仲良しで、困った時も力を合わせてやってきた夫婦だったという自負がある。何が悪くて、何を間違えてあんな事になってしまったのか、本当に分からない。誰が悪くて、誰には責任が無くて、誰を許して、誰を責めれば気が済むのかも。
本心では、諸悪の根源はわたしなのだと思っている。でも、これを言うと彼がうなだれて、更に悲しんで、そう思われると余計辛くなると声を絞り出す様に言うので、謝るのを辞めた。
今でもわたし達は仲良し夫婦だ。でも、あの出来事の前と後で、2人の関係は明らかに、ほんの少し、変わってしまった。
こうなるくらいなら、あの時見捨ててあげてた方が良かったのかもと思う時もある。でも、どうやったって彼を諦めきれなかった。愛とか恋とかだけではなく、守るべき人だと、そう思ってしまった。
一見すると、更に団結力が強まった様に見える2人だ。けれど本当は、お互い最大限の力を振り絞って、乗り越えた風を装っているのだと思う。お互いが、相手を不幸にした罪悪感から、抜け出せずにいる。
駄目な方へ向かって行くのが当然の報いだと言わんばかりに、2人の暮らしがどんどん悪くなっていく。あの出来事にも、異様なまでに触れなくなっている。刺さったトゲを、そのまま放置しているせいで、皮膚の下で黒く存在感を放つ。
彼はこれからも、わたしに優しいだろう。
でもそれは、あの出来事の前に見せてくれていた、強さからくる大きな優しさではない。
どこか後ろめたく、自分を罰し、まるで一生下ろせない荷物を抱えてしまったような、悲しい弱い優しさなのだ。
お願いだから、わたしはもうとっくに許しているのに、そんなに自分を責めないでと、声にして伝えても、届かない。
わたしも自分を許すからと、切り札のように付け加えても、効き目がない。
彼は見透かしているからだ。
わたしもまた、同じように自分を責め続けている。
もう2人が並んで歩けることはない。
仲良く手を繋いでも、笑い合う毎日でも。
心の距離が、どうやったって縮まらないのだ。
死ぬまで傍にいます。
その決意が変わる事は決して無い。
でもそれが意味するのは、これから死ぬまでお互いずっと、どこか寂しいままかもしれないという小さな呪いでもある。
それでもいい。
覚悟は、もうとっくに出来ている。