オーストラリア滞在時の思い出ー戦争の傷跡
今日、日本被団協がノーベル賞受賞式に出席しているニュースが流れています。1993年に私がオーストラリア滞在に経験した体験を思い出しました。
日本語教師アシスタントとして公立学校に勤務していましたが、ある日生徒たちの自主研究で「サダコの千羽鶴」について調べていることを知りました。
私自身、「戦後」という言葉が当たり前に聞かれる時代に育っていて、広島の原爆についても、折に触れていろいろなところで見聞きしていました。
でも「サダコの千羽鶴」というのは聞いたことがなく、日本人でも知らないことを、遠く離れたオーストラリアの田舎町にそれを興味を持って調べている生徒たちを見て少し不思議な気持ちになりました。
またある日小学校を訪問したときのことです。
子どもたちは日本から来た変な先生に興味津々ながら、各々心ばかりのプレゼントを持ってきてくれたりしました。
その中でショッキングなものを持ってきてくれた子供がいました。
その子は「これ、なんだかわからないけど日本のものだよね?」と無邪気に言いながら少し大きな布を広げて見せてくれました。
それは出征する兵士に向けて寄せ書きを記した日の丸でした。
日の丸の周りにたくさんの人の名前、旗の端には血痕のようなくすんだ赤いシミが見られました。
私はこんな場所でこんなものを目にするとは思っていなかったので、ただただ言葉を失いました。
その子はただ単に「日本のものだから見せてあげよう」という単純な好意で持ってきてくれたので、この旗に込められた深い意味なんて知る由もないのです。私もいまここで私が正確に事情を説明することもできない。固まってしまいました。
第二次世界大戦中にはオーストラリア北部で戦闘があったものの、こんなものがどこをどう通ってここにたどり着いたのか、全く想像もつきませんでした。
今の世代の人に伝えるのはとても難しいのですが、昭和50年代前半くらいまでは「戦後○○年」という言葉をあちこちでよく聞きましたし、当時の子供たちは、二度と戦争を起こしてはいけないというメッセージをメディアや教育を通して叩き込まれました。
それでも日本の外では、ベトナムで戦争が起こっていたりして時折ニュースに流れていたのは記憶にあります。
今でもテレビ、ネットで世界各地の戦闘シーンを目にする機会はありますが、当時はとは違う気がします。
当時はもっと身近というか、子どもであっても日々の生活の中に「戦争」というものに対しての意識があり、常に頭の片隅に留まっていた気がします。
今この瞬間にウクライナ、中東、その他いろいろなところで戦争で命を失くす人がいますが、それはあくまでも画面の先のこと。今の世の中は直接の痛みを感じないと、なかなか本当の「痛み」を感じることはできないのかな?とも思います。
だからと言って過剰な武装に走ったり、他国を排除したりすることはおかしな話ですが、どうしたらよいのか正解のない複雑な世の中に入ってしまったことは確かですね。