美術を鑑賞する作法 番外編 「作法なんて本当は必要ないけれども。。。」
イタリアの旅の時間に戻らずに、今日も日本の現代の時間におります。以下、私のつぶやき。
上の画像は、東京・六本木の国立新美術館に隣接している政策研究大学院大学の入り口近くに群生しているクチナシの花だ。白い花の香りが、とにかく素晴らしい。ずっと前に撮影したので、今年はどうなっているのだろう。現在、諸事情で東京から離れている私は、確認出来ないけれども。
昨日、こんなnoteを書いた。
思うところがあり、800文字ほど加筆した。
上記のnoteの下書きを書いていた時、最初の文章は、こうだった。
私は美術史を専門としているけれども、作品の描写や感想が苦手だ。
そして、こうも書いていた。
つまり、美術史は、モノを扱う学問であり、感想を述べる学問ではないのだ。
となると、私の旅のnoteは、好き勝手に感想を述べているnoterの旅日記だ。とはいえ、どうしても旅のnoteにも美術史のウンチクを書いてしまう。そのあたりが微妙だけれども。
作品は自由に感じるべきだ。そして、作品の描写も鑑賞者が自由に感じるだけだ。だって、作品は画像としてそこに存在しているのだから、と私は思ってしまう。
でも、自分の「エッセイ」になってしまいそうで、削除した。
最近、note内の公式や個人主催のコンテストの流れなのか、「どうすれば良い文章が書けるのか」といったnoteにつながる。
なぜ、自分は書くのか。。どうすれば、良い文章が書けるのか。。そう考えて、奮起する人もいれば、立ち止まってしまう人もいる。私は、どちらかといえば、後者だ。
私は、料理は好きだけれども、レシピを紹介するほどの才能はない。音楽も、実はR&Bが好きだけれども、ライナーノーツを書くほど知識はない。note以外に小説や詩は、読まない。つまり書けない。
唯一あるとすれば、美術史の知識だけは、並以上にあると思う。そう思っていいと自分に言い聞かせている。「美術史家」とあえて自分をそう呼ぶのは、自分の今までの努力を自分で認めないと全ては、始まらないと思ったからだ(一応Ph.D.あるし)。
私は、どんな作品の前でも謙虚でいたいと思っている。どんな作品の前でも知識は必要ない。どんな作品の前でも、鑑賞者は、単なるひとりの鑑賞者であり平等だ。だから、作品に感じる心は、自由だ。その人のその時の気持ちが、そのままの感想だ。
つまり、私が作品について感想を述べる時は「私」であり、分析やらウンチクを話ししている自分は「美術史家」なんだと思う。ただ、感想を述べながらウンチクをnoteで書いている自分は、何だろう。。。と正直、ずっと考えていた。
本来であれば(少なくとも欧米の多くの)美術史家が行わない「感想」という行為を、自分の旅のnoteの中で許していることで、美術をみる「本当の楽しさ」を取り戻しているのだと思う。なぜなら、旅をはじめる前の私は、美術が嫌いだったからだ(美術史家なりに人生いろいろある)。
ただ、noteの街の中にいると専門だからこそ、書きにくいことがある。楽しく美術のことを書いていらっしゃる人気のnoterの方々を邪魔するつもりはないが、この画像の使用料とかどうしているのかなと思うこともある(*)。
ちなみに私は、自分が撮影した画像しかnoteでは使用しない。美術に関するnoteを旅noteで書いているのは、それが大きな理由だ。
旅noteは、書いていて楽しい。でも、旅情報を提供する私は、どういう立場でいるんだろう。美術の専門としてなのか、個人なのか。自分だからこそ何か出来ることはないのか。。。と考えていた。
そこで、以前書いたnote『美術を鑑賞する作法』をマガジンとして、旅noteと並行して書き始めることにした。「アートビジネスと学問の世界で美術史を体験したnoterの覚え書き」と考えていただくと良いかもしれない。
最近の美術本を読むと非難されそうなフレーズだけれども、作品は自由に見るべきであり、感じるべきだ。
そこより先へ進みたいのであれば、たぶん、お役に立つこともあるであろう「作法」のひとつが、私がnoteでつぶやく『美術を鑑賞する作法』と思っていただければ幸いだ。
*著作権の保護期間は、作者の死後70年だが、保護期間を過ぎた作品でも、その作品の所蔵美術館や所有者から画像使用料の請求が発生する場合がある(2020年6月19日現在)。例えば、以下のようなフォトエージェンシーが存在する。
ご参考までに。