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高峰秀子とハワイ 日系米兵との出会い~ハワイに眠る

高峰秀子生誕100年、おめでとうございます。
女優の高峰秀子がハワイと深く係わっていたことを私が知ったのは、夫で脚本家の松山善三との共著『旅は道づれ アロハ・ハワイ』を見つけてから。さらに『わたしの渡世日記 下』には、終戦直後にハワイから日本を訪れた日系米兵、ハワイ生まれの灰田勝彦、ハワイの日系人の歴史について書かれていた。また、高峰秀子の養女となった文筆家・斎藤明美の『高峰秀子との二十年』にはハワイのコンドミニアムを購入した経緯などが記されていた。これらの文章を時系列に編集し、高峰秀子の写真集や斎藤明美編『高峰秀子 旅の流儀』などに掲載された写真を添えて、「高峰秀子とハワイ」と題して2021年3月16日~30日にツイッターに連載した。


日系米兵

昭和20年8月30日。ジェネラル・マッカーサーが厚木に到着。
翌年2月。私は、日比谷の東宝劇場を米軍用に改造したアーニー・パイル劇場で、超満員の米兵を前にアメリカの流行歌を歌っていた。アメリカ風に楽器を編成した40人の楽団員が、白の上着に蝶ネクタイで音楽を奏でていた。

1曲終わるごとに、場内がゆれるほどの拍手と鋭い口笛が、私を棒立ちにさせた。ステージから楽屋に入ると、米兵たちが「ハロウ! ミス、タカミネ!」と言いながら、手に手に贈り物を抱えてなだれ込んで来る。ラストショーが終わると、楽屋口から真新しいキャデラックで成城の家まで送り届けてくれた。

昨日までの私は、日本軍の兵士のために軍歌を歌い、士気を鼓舞し、一億玉砕と叫び、日本軍の食糧に養われていた。それが、戦争が終わって半年も経たないいま、今度は米軍の将兵のためにポピュラーソングを歌い、PXのチョコレートに食傷し、将校服地で仕立てたコートを羽織って、テンとして恥じない。

昭和20年8月30日。ジェネラル・マッカーサーが厚木に到着
昭和20年8月30日。ジェネラル・マッカーサーが厚木に到着

いつの間にか常連が出来、彼らは楽屋の畳の上にあがりこんで勝手なお喋りをして、くったくのない笑い声をあげていた。私はふと、その中に、なんとなくヘンな兵隊たちが混じっているのに気がついた。顔が黄色いのだ。容姿容貌は日本人そっくりだが、米軍の軍服を着て英語を話す。

付き添いの母は黄色い兵隊に向かって、日本語で聞いた。
「あんた、何人?」
「ミイ?……日本人よ」
「アメリカの兵隊さんでしょ?」
「イエス、アメリカ人で日本人よね」
「どこから来たの?」
「ハワイ。日系の二世じゃけん」
「戦争にいってたの?」
「アハン。イタリア……日本人撃たんかったね」

私たちは持参の弁当を広げた。母の結んだおにぎりが並んでいた。早く食事をしないと、3回目のステージの時間が来る。
「ママさん、ニギリメシ、食べたらいかん? オンリーワン」
母の差し出したおにぎりを口の中に入れた黄色い兵隊は、ウーンとのけぞった。涙をこぼさんばかりの喜びかたである。

日比谷の東宝劇場を米軍用に改造したアーニー・パイル劇場
日比谷の東宝劇場を米軍用に改造したアーニー・パイル劇場

母は例の義侠心(?)を持ち出した。
「明日でステージは終わりなのよ。オニギリ食べたかったら。家へ来なさい」
「ウワオ、ワンダフル。ミイの友達も連れていくよ、OK?」
母は胸を叩いてうなずいた。
その日が来た。夕方、撮影所から戻ると母はご飯を炊きはじめた。約束は6時。

「ポア、ポアーン!」という聞きなれないクラクションの音がした。玄関のドアの前にデッカイ「US・ARMY」のバスが止まっていた。ゾロゾロゾロゾロ、軍服姿の兵隊が降りて来る。無邪気な歓声をあげて家の中へなだれ込んだ。靴のまま、である。私は叫んだ。
「テークオフ、シューズ、プリーズ!」

およそ30人ほどだろうか? 彼ら彼女らは床に座り込み、二方の出窓に目白押しに腰をかけた。全員嬉々としている。あと5、6回は炊かなければならない。日本の流行歌のレコードをかけると、喜んだ。今度は彼らが歌い出した。ウクレレが鳴り出し、軍属の女性が手をさしのべ、腰を振って踊り出した。

終戦直後、アーニー・パイル劇場で歌っていた頃の高峰秀子
終戦直後、アーニー・パイル劇場で歌っていた頃。

灰田勝彦

昭和21年夏の「ハワイの花」は、戦後はじめてといわれた豪華ショーであった。娯楽に飢えた人々は一瞬の憩いを求めて殺到した。ハワイといえばフラダンス。広い舞台でソロを踊るために、日劇ダンシングチームの三橋蓮子に特訓を受けた。フラの基礎は徹底的なガニ股歩きから始まる。

ガニ股歩きの合間には舞台の稽古と歌の音合せがある。歌は下手だが、恋人役の灰田勝彦がいるので心強かった。灰田勝彦とは映画3、4本で共演し、戦争中、軍の慰問にも同行した古い仲間だった。当時は数々のヒットを重ね、人気は絶頂にあった。35歳独身で予測される結婚相手として私の名前もあがった。

灰田勝彦は明治44年、ホノルル生まれ。小学生の頃、両親と里帰り。帰国の夜、梱包済みの荷物一式を盗まれ、一家は裸一貫で出直す。大学在学中に作ったハワイアンバンドでプロになるが、軍に睨まれ、赤紙で行った満州で黄疸に。後遺症で結婚不可能とされたが、38歳で健康を取り戻し、ハワイで結婚した。

灰田勝彦と高峰秀子
灰田勝彦と高峰秀子

初めてのハワイ

はじめてハワイを訪れたのは昭和25年。パリからの帰国時、給油のために2時間ほど。待ち受けていた新聞記者は、私をキャデラックに押しこんでロイヤルハワイアンホテルへとつっ走った。当時はワイキキの賑わいもなく、ロイヤルハワイアンだけが夢のお城のように浮きあがっていた。

グァバジュースで一息ついた私は、ロビーでの記者会見で質問に答えながら、私を囲んでいる人々を見わたした。熊本弁や広島弁が乱れ飛ぶ。みんな日本人だった。いや、そうではない。私はとつぜん、敗戦直後に東宝映画撮影所に見学に来た、大勢のアメリカ進駐軍の黄色い顔をした兵士たちを思い出した。

「サブロー」「ジョージ」「クニオ」などの名前を持つ兵士たちは、顔は日本人でも日本語はタドタドしく、ハワイ生まれの日系二世のアメリカ人だと言っていた。とすると、このハデなアロハを着た人たちもアメリカ人なのだろうか? キツネにつままれた気分のうちに、再びホノルル空港へ送りかえされた。

ロイヤルハワイアンホテルの正面玄関
ロイヤルハワイアンホテルの正面玄関

再びホノルルへ

昭和33年。ニューヨークでの日本映画見本市に参加した私は、再びホノルルを訪れた。10年もたたぬ間にすっかり変っていた。街は観光地らしく彩られ、出来たてホヤホヤのヒルトンホテルのロッジに泊った。翌朝、小鳥の声に目ざめた私は、外へ走り出て呆然としてあたりを見まわした。

きらめく太陽、群青の空、エメラルド色に輝く海、風にそよぐ椰子の葉、咲き乱れる花々、あたりにただようジンジャーやプルメリアの強い芳香……。天国とはかくもあろうか? 日本領事館への表敬訪問のあと、フラダンスを見学し、ルアウの仔豚の蒸し焼きを食べ、ビーチに寝転がり、ハワイを満喫した。

レストランに入れば、町を歩けば、タクシーに乗れば、日系人の温かい親切があった。彼や彼女の笑顔は優しく柔らかく、どの人の顔にも「善」という字が貼られているかのようだった。「日本にはいない、違う日本人がここにはいるのかしら?」。私はこの人たちの笑顔のルーツをもっと知りたいと思った。

1957年のハワイアン・ビレッジ
1957年のハワイアン・ビレッジ

映画『山河あり』

3回目のハワイ旅行は、松竹映画『山河あり』のロケのためで、昭和36年12月から2ヵ月間。この映画はハワイの移民史ともいえる日系人一世、二世、三世にわたる大河ドラマ。脚本・演出は、わが夫・松山善三。共演者は小林桂樹、田村高広、久我美子さんたちで、ロケ隊は30人で編成。

ハワイのユニオンからは「大道具」「小道具」「照明助手」など20人の裏方さんが参加した。私は、主役の他に、衣装監督を担当していたので、仕事は全俳優さんの衣装のアイロンかけから。スタッフは初めての海外旅行でチンプンカンプン。私は5時起きで、台所つきの部屋で無料の食堂を開き、奮闘した。

朝食をかたづけると、俳優に早替り、8時出発のロケバスに飛び乗り、日暮れまでの撮影に疲れ果ててホテルに着くと、マーケットで夕食の材料を仕入れてホテルに戻る。メークをおとすと食堂のオバハンに早替りして夕食の支度にかかる。夕食をかたづけると、翌日の衣装を俳優さんの部屋へ配って歩いた。

松竹映画『山河あり』のポスター
松竹映画『山河あり』のポスター

ハワイへの移民

日本からハワイへの最初の移民は明治元年、男はザンギリ頭で着物にモモヒキ、女は日本髪に下駄ばき姿で120人余が渡った。のちに官約移民として出稼ぎに出た人々のほとんどは山口県、広島県、福岡県出身。当時、農村は大凶作で、農民たちはハワイ移民募集の呼びかけに飛びついた。

官約移民の条件は3年契約。1カ月26日の実働で、男が9$の給料に食費6$。女は給料6$と食費4$。日本での労賃の何十倍。住居と医療費は無料。宿舎に雑魚寝し、労働時間は朝6時から10時間。仕事は砂糖キビや甘藷の栽培。30℃を超える炎天下で、ポルトガル人の監視人にムチで追われながら働く。

日本からの官約移民は大正13年までに約20万人がハワイへ渡った。稼ぎを終えて帰国する者、アメリカ大陸へ渡る者といろいろで、ハワイには約5割が定着した。独身者は、日本から写真1枚で妻を迎えた。時はたち、男と女の間には二世と呼ばれる子供たちが生まれた。二世はもちろんアメリカ国籍だった。

ハワイ島ワイナク農園の移民労働者たち(1912年)
ハワイ島ワイナク農園の移民労働者たち(1912年)

昭和50年現在、ハワイに住む日本人一世は、日本に住む日本人よりも「やさしい日本人」である。彼らは骨身を削るような労働に耐え、子供たちのために学校を建て、日本的教育をした。ようやく人並みな生活が出来るようになると、日本家屋に近い家を建て日本風の食べものを求める。

公立学校で英語の授業を受け、なお、日本人学校で日本語の教育を受ける……。アメリカと日本の板ばさみになった二世たちは、さぞとまどったことだろう。しかし、よく親たちの期待にこたえた。現在のハワイには、アメリカ本土で勉強してきた優秀な医師、弁護士、法律家などが大勢開業している。

ハワイでは未だに、一世から曽孫まで四世代の人間が共同生活をしている大家族を見かけるけれど、家の中の空気はチグハグでちょっと不思議な光景である。家族同士、言葉が通じないのだ。しかし家族とはよくしたもので、意思の疎通は少々欠いても一緒に生活をしている。よほどの大問題が起きない限りは。

ハワイの食料品店にて、日系人に囲まれる高峰秀子と松山善三
ハワイの食料品店にて、日系人に囲まれて。

しかし、大問題は起きた。大日本海軍航空隊は、ハワイの真珠湾を急襲した。日系知識人は根こそぎ逮捕され、収容所へ運ばれた。二世が立ちあがったのはこの時だった。「日系人にかけられた疑惑を一掃するには、自分たちがアメリカのために戦うほかはない。相手が日本であっても」

ハワイ出身の二世ばかりで「第100大隊」が結成され、ハワイの二世とアメリカ大陸の二世との混成部隊「442部隊」が編成された。「死をもって汚名を濯ぐ」という決意で団結した二世部隊の働きは、すさまじいものだった。彼らは危険な第一線ばかり選んで転戦し、負傷兵は病院から再び前線に戻った。

戦死した二世の将兵たちは、いま、ホノルルのパンチボール墓地に肩を並べるようにして眠っている。私はハワイを訪れるたびにパンチボールの丘にのぼる。墓に手向ける花はアンセリアム、ガーディニア、ハイビスカスなどの明るく強烈な色彩の花。墓石を囲うようにプルメリアのレイが置かれていたのも見た。

ホノルルのパンチボール墓地

ハワイで暮らす

結婚後1年経った頃、夫が腎臓結核を患い、医師に座業を禁じられて、私が口述筆記を引き受けるようになった。旅行もほとんど一緒だが、夫が私を連れ歩くのは、筆記のための巨大な鉛筆をたずさえていることに他ならない。ただしこの鉛筆、おとなしくコキ使われてばかりはいない。

が、「次の口述、ハワイでやるか?」と言われると、イソイソと夫のあとに従うことになる。ハワイに惚れていて何度でも行きたいのだからしかたがない。しかし、1カ月の長逗留ともなるとホテル住まいはゆきづまってくる。だから、夫が「アパートでも借りようか」と言ったときには双手を挙げて賛成した。

ショッピングセンターにもビーチにも近い真っ白くてカッコいいアパートの2LDKの角部屋をみつけ、日用品を買い、一息ついたら、主婦の仕事が増えてくたびれちまったのである。根が美味しいもン好きの私。レストランでステーキの焼きかたに失望すると、自分で焼いてみなければ気がすまないのである。

アラモアナビーチパークの高峰秀子と松山善三
アラモアナビーチパークの高峰秀子と松山善三

マーケットには、マノアレタスという私の好物がある。クレソンも、サラダの他、おひたし、胡麻あえ、味噌汁の実と、なんでもいける。アルファルファもサンドイッチにはさんだり、サラダに入れると美味しい。私が愛用しているカリフォルニヤ米は鶴米と国宝。豆腐と納豆も美味しい。

私がはじめて缶詰のパイナップルを食べたのは10歳のころ。いったい畑に1個ずつ出来るものやら、大木に実るものやら見当がつかなかった。ハワイのパイナップル畑を見て、ソテツのように開いた葉の上に黄色く熟れたパイナップルが首を並べている様子をみて納得。切りかたをおぼえたのもそのときだった。

ハワイにある果物で、私の好きなのは茘枝。御存知、あの楊貴妃の好物で、大きさは親指大の苺くらい、赤くて固い皮をむくと、白い半透明の肉がキョロンと顔を出し、口に含むとなんとも形容のできないいい香りがする。新鮮な茘枝を食べたいものだとウロキョロするが、なかなか出会えないのが残念だ。

茘枝(れいし)=ライチ
茘枝(れいし)=ライチ

アメリカでは、パンケーキは老若男女が好んで食べる朝食の一品。私たちのヒイキのパンケーキハウスでは、オムレツを注文すれば直径20cmのパンケーキが別皿に4枚ついてくる。オムレツは卵を3個使う上に中味がハミ出すほど入っており、一人で食べきれるわけがない。

ハワイ料理ルアウを現代風にアレンジしたメニューが揃っているピープルズカフェはダウンタウンの小さな店だが、ロコに大人気で、おひるどきなど店の前は長蛇の列。ルアウの最高御馳走はカルウアピッグという豚の蒸し焼き。ロミサーモン、ポイなど、ハワイアンの味なるものをためしてみるのも一興。

チャイニーズ・カルチュア・プラザは、中庭を囲んで中国の商店や飲食店が軒を並べている。私のお目あては小さなお粥屋「香港粥麵家」。鶏肉入りのお粥と雲吞、中国野菜のカイランかチョイサムのオイスターソースを注文する。鴨のローストが美味しいので二人前テイクアウト。一人前5~6ドルで満腹に。

香港粥麵家のワンタンメン、チョイサムのオイスターソース、鴨のロースト
香港粥麵家のワンタンメン、チョイサムのオイスターソース、鴨のロースト

ヌアヌパリにあるエンマさんの白亜の山荘は、質素で、一国のクイーンの別荘だなんて信じられない小さな家。ラウハラの葉で編んだ涼しげな敷物が敷かれ、使用した食器や家具などが当時のままに展示。私が気に入っているのはハワイの銘木で作りあげた王子アルバートの「ゆりかご」。

ホノルル美術館は、静かで清潔で中味も充実。革命のときに持ち出した素敵な中国家具の展覧会を見たし、日本の屏風展ではゆっくりと光琳の屏風を眺めた。モジリアニ、ピカソらの絵も揃っているし、5つある庭園は日本風だったり、スペイン風だったり。ひとまわりすると神経がひきしまること間違いなし。

ビショップ博物館を見ないことには、この国の歴史や人間を知ることはできない。コアの木で作られた内装は落ちついた雰囲気で、カメハメハ王朝の王冠や玉座があるかと思えば、ハワイに渡った移民が使った食器や家具も展示。一番の見ものは、古代、ハワイの酋長が羽織っていた鳥の毛で作られたマント。

クイーン・エマ・サマー・パレス
クイーン・エマ・サマー・パレス

「ドクター・イヅツが『いい所が空きましたよ』って言うから、見に行ったら、ドアを開けた途端に空が見えたの。いいなぁと思って、その場で決めた」
ハワイの松山家は4階の角部屋で、空に囲まれているような開放感があり、ベランダからはアラモアナパークの広大な緑が一望できる。

「初めの頃は、あちこちへ見物に行ったりしたけど、ハワイに家を持った一番の理由は、身体の弱い夫が2ヵ月ハワイにいると、真っ黒に日焼けして元気になるからなんです。大事なお宝亭主だから、少しでも長持ちしてもらわないと困る」
2000年。30年以上、毎夏冬、夫婦で通い続けたホノルルの家を処分。

2010年12月28日、夫と娘に見守られて永眠。享年86。
オアフ島のコオラウ山系に続く広大な丘陵の芝生の中に高峰と松山が50代の時に用意した二人のお墓があった。芝生に埋め込まれた墓石には、高峰が自らデザインした「眠」の一字とプルメリアのレリーフ、その横に「松山善三、高峰秀子」の名前が横書きで上下に刻まれていた。

アラモアナのコンドミニアムのプールサイドの高峰秀子と松山善三
アラモアナのコンドミニアムのプールサイドで

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