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「自己言及のパラドクすし」

今日、先日撮影した写真をいつものようにLightroomに取り込んで編集していた。いつもやっていることで、いつものようにゲージを上げ下げして写真をいじくり回していた。

僕は、「これは写真」と思っている画はLightroomで編集し、「これは画像」と思っているものはPhotoshopも経由する。あるいはIllustratorでつくる。
全部デジタルやん。なんで分けて考えられるんだろう。
ソフト間で使用するツールが明確に異なるため、僕は普段具体的な線引きはここで行っている。でも写真をPhotoshopでいじくる人もいて、画像をPhotoshopでつくる人もいて、写真をIllustratorでいじくる人もいる。このモニャモニャした感覚、写真について考える時いつも思う。何をもって写真なのかとか。

この前、仕事で撮影に行った時、終わり際に記念の集合写真の撮影を頼まれた。僕はカメラマンとして雇われてそこにいるのだから当たり前だし、自分のカメラを握り、関係者が集まっている方へ向いた。でもそんな時、ある女性が「これでも撮ってください!」とスマホを渡してきた。そこで僕はものすごい違和感のようなモニャモニャを感じた。
もちろん、snsアップや関係者への共有は、スマホの方が圧倒的に早いから、スマホでも撮って の意図はめちゃくちゃ理解できる。もちろん快く受ける。
でもこんな時、写真が徐々に下らなくなるような、写真に対して冷たくなるような感覚を覚える。
そして仕上がる写真を見ると、スマホの方が明るくて人が綺麗に写る。僕のカメラで撮った方は、ある意味で正直というか、写実的だった。
撮り終えた後、直ちに写真は共有され、関係者の方々はその写真を観て楽しそうに話していた。

撮られた側にとってはどちらも本物でどちらも嘘だ。そこに優劣はない。
ただ、写真を写真たらしめるものが、見えない思い出や記憶の集積だとした場合、より写真なのはきっとスマホで撮った方だ。

芸能人やモデルの方々のsnsには自撮りと他撮りが混在していたりする。全然顔が違ったりする。それぞれに良さがあるし、それぞれに足りないと思うものがある。そして、どちらもその人で、どちらもその人じゃない。このスパイラルは作為的でもあるし、無作為に起こる事でもある。

写真は正直で、でも写っているものは嘘八百で、ってとんでもない化け物だ。
写るものが嘘なら、写す側も嘘をつく。
人間と写真ってすごーく似ている。

最近こんなことばっか考えては、「くだらねー」ってなって飯を食べる生活をしています。

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