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欅坂46「誰がこの鐘を鳴らすのか」

欅坂46最後のシングル「誰がこの鐘を鳴らすのか」が配信されました。
とりあえず配色がシガテラの6巻みたいだなと思い、画像検索したら帯コメントもドンピシャな気がして驚く。

先月のオンライン配信ライブで改名が発表されて、ラストシングルがセンター不在だと知ったとき、さすがに勘弁してもらいたいと思った。

坂道シリーズと括られてはいるけれど、乃木坂も欅坂も日向坂も共通するムードはなく、その上であえて共通項は何かと問われれば「逆境に立ち向かう」というコンセプトだ。
余談だけれど、ファンやメンバーの間では、グループが困難を乗り越え成長する過程を「坂を登る」と呼ぶ。とても素敵な表現だ。

乃木坂ならばAKB48というエポックの公式ライバルという境遇に、
日向坂ならば欅坂46のアンダー組織という境遇に、
欅坂ならば平手友梨奈という絶対を抱えてしまった境遇に。
それぞれが立ち向かってきたはずだった。

そんな中で今回の欅坂の改名は、坂道シリーズのいわば敗北宣言でしょう。
そしてラストシングルのセンター不在で敗北は決定的なものになった。
欅坂46は平手友梨奈のものだったんだなぁ、となんだかやるせなくなってしまった。

ブログのあまり趣旨にそぐわないのだけれど「欅坂は異色で〜」という褒め方が僕は嫌いだった。
この世に存在するの人間として彼女たちを認めていれば、その「異色」のために生じた歪み、「平手友梨奈とその他」の苦しみは見えてくるはずで、そうなれば簡単にその部分を褒めたたえるという行為に結びつくとは思えないからだ。
エンタメとして他人の人生を消費するだけの、恋愛リアリティショーと変わらない消費社会の愚がある。

朝井リョウがNizi Projectを評するのに用いていた「エンタメのために誰も犠牲になっていない」という感覚は僕のもやもやをずばりと言い表してくれていて流石だった。

だからこそ、こんな状況の中で小林由依さんの「私が辞めたらグループが終わってしまうと本能で理解している感」というか誰とも等距離で群れずにグループの命運を背負う姿は、まさに立ち向かう者の姿だし坂道のセンターだと思っていた。
「誰がこの鐘を鳴らすのか」の曲でもダンスでも中央にいるのになんでセンターじゃないんだろう。
むしろ欅坂はここから始まった、と言わせてほしかった。

青春という名の毒を置き去りにしたまま・・・・
物語は終結する。

シガテラの怖いところは「その毒はいつ効き出すのか分からず僕らの日常に潜り込んでいく」というところだったな。古谷実レベルになると人の営みは予言できるんだろう。

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