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「わかりやすさ」って・・・

昨日と今日で、4本映画を見た。

『Cloud クラウド』
黒沢清の車中シーンは今回もたまらんかった
『憐れみの3章』
寝不足が原因で途中ちょっと寝てしまった・・・でもまた見に行きたい
『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』
池松壮亮はあのアクションスキルを『シン・仮面ライダー』で見せてほしかった
『スオミの話をしよう』
色々な意味で『憐みの3章』より脳を破壊された・・・

基本的に私はこのnoteでは自分が見た・読んだ・体験したコンテンツの感想を書くために利用している。

だからこの週末に見た4本についても記事にしたいと思っているが、それなりに時間もかかるし、今日は映画についてはパスしたい。


私はあくまで自分が体感したコンテンツをアウトプットするためにnoteを利用している。自分の文章が有料記事に値するなんて到底思えないので自己満足でダラダラ書いている。

昔より圧倒的に記憶力が衰えていて、今年のアタマにみた映画は結構内容を忘れちゃっている。だから第三者に読んでもらう文章を書くことで何らかの記憶・記録にとして残しておきたいのだ。


感想を書いていてちょっと複雑なのは、せっかく書くんだからビューやスキの数をガンガン気にしてやるぞ!という気持ちはあって、それは以前記事にも書いた通りで、嘘はない。

で、ビューやスキの数を稼ぎやすい記事にはある程度のノウハウがあるらしいことは知っている。

例えば「タイトルがキャッチー」とか「最初に結論を書く」とか「言いたいことは1つの記事に1つだけ」とか。

ただややこしいことに、私は多忙な読み手さんが求められていることを頭ではわかっていながら、そういうものとは距離を置きたい、天邪鬼な人間でもある。


昨日アップした『虎に翼』の感想は、ドラマの感想というよりドラマを通じて自分が何を思ったか、についてが大半を占めている。恥ずかしながらこれは5時間くらいかけて書いており、ちょっと間をおいてさらに推敲してアップしたが、それでもなにが言いたいのかよくわからないと読み返して自分でも思う。

後半はほぼ自分語り。『虎に翼』の感想とか考察が読みたいんであって、テメエのことなんか興味ねえよ、と思った方もいたはず。

そんなあなたは間違っていない。自分でもそう思う。

「ピコ太郎って最高だよね」と一言一句同じ言葉をSNSで発信したとして、私とジャスティン・ビーバーだったらその影響力は月とスッポンくらいの差があるわけだ。要は「誰の発言なのか?」が大事であって、その点自分が無価値に等しいのはよくわかっている。


しかしながら、やっぱり天邪鬼な私は「わかりやすさ」ってやつに媚びへつらう気はない。読みやすい記事のメソッドとして取り入れられがちな「この映画の推しポイントは3つです!まず1つ目は・・・」なんて書きたくない(そういう書き手の方を否定する気はありませんよ、、、念のため言っておきますが)。

素人が何言ってんのかって?いや、素人だから好き勝手書いとるんですわ。

そういった私の気持ちを甘やかしてくれる2冊がこちら。

著:武田砂鉄『わかりやすさの罪』と著:金田一秀穂『あなたの日本語だいじょうぶ?』である。


どちらかというと現場作業の多い私だが、一応サラリーマンでもあるのでたまにはお偉いさん向けにPowerPointやExcelで資料を作る。そのとき求められるのは「わかりやすさ」だ。

上司なんかに資料をチェックしてもらうと「ここはグラフにできる?」「文字数はもっと少なくして」「余白だいじに」みたいなご指導を受けることがしばしばある。

ま、やれと言われればやるんだが、結局そうやって「わかりやすさ」を重視して情報のノイズを削ぎ落した結果、結局「よくわからない」資料になることも多い。情報を削ぎ落したんだから疑問が次々と湧いてくる資料になっていて当然だ。

これは愚痴でしかないが、忙しいをアピールしたいお偉いさんが「一発でわかる資料」を平社員に求めてくるが、それはお偉いさんが「思考停止」しているからであって、何でこっちがそれに付き合ってあげねばならんのだ。

難解な事業課題の資料は難解になって当たり前だ。それをわかりやすくしようと簡潔にした結果「よくわからん」とか「資料がよくない」とか言うのはどういう身分なんだ。てめえらも熟考しろ。


そんな「わかりやすさ」の功罪について、政治やメディアに物申すのが武田砂鉄さんの著書『わかりやすさの罪』である。白か黒かハッキリしないものを無理に白と黒にハッキリさせる必要はない。「わかりにくい事象」の「わかりにくさ」に真摯に向き合わないとそれは思考停止だと主張している。ぜひご一読いただきたい。

そしてもう1冊が金田一先生の本だ。とても大切なことを書かれているので引用させていただきたい。

 大学入試に小論文が出題されることがあって、高校や予備校がその対策を教えているらしい。何かについて意見を求められる。温暖化でも、いじめ問題でもいい。
 その場合、まず最初に結論を2、3行で出す。何を言いたいのか、わかりやすい。次に、その結論に至った理由を述べる。例えば「その理由は三つあります」などと続ける。すると、読む人には整理された頭脳の持ち主に見えるらしい。で、もう一度結論を述べる。それで終わる。
 何だって、勝手に作り上げられる。確かにわかりやすい。しかし致命的に面白くない。わかり切ったことしか言わないから、聞く気がしない。人が話を聞くのは、何をどうするのか先がわからないからだ。それが最初からわかってしまっている。結論を先に言われたら、それこそ聞くのは時間の無駄にしか思えない。
<略>
 そもそも最初から結論を書くのは、およそ無理なことである。作文を書くということは、それについて考えを深めていくということである。なぜ書くのかと言えば、それについて考えてほしいからだ。自分なりの考えを自覚して文字化して客体化してほしいからだ。まして「勉強が必要かどうか」というようなお題が出された場合は、それこそ簡単に答えが出せることではない。正解などあるはずもない。教師が評価するのは、その思考経路であり、どのように筋道を追っていくかをみている。初めから結論、正解が出るわけがない。というか、たいていの事柄には正解などない。 まだ見つかっていない。だからこそ偉大な思想家は長編の書をものし、そうしてまだ書き続けるのだ。考えるということを、あまりにも安直に考えているのではなかろうか。

『あなたの日本語だいじょうぶ?』第2章 これからの日本語 P29-30、32

同じ日本映画だが、この土日で『Cloud クラウド』と『スオミの話をしよう』を見比べて「余白」がいかに重要かわかった。

そんなわけで、あえて結論めいたことは書かずに「余白」を残してこの記事は閉じます。

面倒な書き手ですが、また読んでくれたら嬉しいです。

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