堅牢な理解の輪
最近よく思う事がある。人間にはそれぞれ「ここまでなら理解出来る」という理解の限界を囲う輪があって、個人差はあるが歳を取るほどその輪の堅牢度は増す。一般的な言葉でいうと「理解の範疇」というやつだが、私にとっては「輪」と言った方がしっくりくる。その輪の素材や大きさも人によって様々で、理想は柔らかく可塑性があって未知の考え方や生活様式に遭遇してもなるべく受け入れられる輪を持っていたい。ただ、他人の輪は外側からではどうすることも出来ない。
そう思ったのも、他人の輪にカツンとぶつかって入れず「ああ、私はこの人の理解の輪の外側にいるのだ」と思う瞬間が立て続けにあったからだ。
私は社会人になってからのほとんどをシフト制のサービス業を生業として過ごし、お店をはじめた現在も比較的人通りの多い土日を店休日にするのは得策とは思えず、ほとんどが平日休みである。とはいえカレンダー通りの会社で働いていたことも一応あるし、そういう一般的な会社員の友人も多いので平日休み・土日休みどちらにも利点があること、その二者が予定を合わせるのはちょっと大変なのも当たり前のことだと思っている。
先日、生涯ずっとカレンダー通りの会社で過ごしていた人と話していたら「何故土日に予定を合わせられないんだ」という旨のことを言われそこで輪にぶつかってしまった。私の中では「こんなところで…?!」という感じであったが、体験したことのないことを解れというのも無理難題なのかもしれない。
また違う話では、友人が一生付き合っていかねばならない病気になって、それはもう何とかやっていくしかないのに、「治るといいわね」と何度も祖母に言われて理解されず傷ついたという話を聞いた時、理解の輪の硬さと難しさを思った。歳を取ればとるほどアップデートしづらいのもあると思う。やはり、人は自分が体験していない事は理解できないのか。でもせめて、理解しようと寄り添う姿勢が無いとその二者間のコミュニケーションはかなり苦しいものとなる。 恐らく私にも、自分では可視化出来ない理解の輪があって、知らず知らずに他人を傷つけたり遠ざけたりしていることもあるであろう。げに難しき、コミュニケーション。