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見る自分と見られる自分

例えば、ライブでステージで歌うことを想像した時、僕には二つの映像が浮かぶ。
見ている世界と見られている世界。

見ている世界はいつもこの現場で、この視野空間で見ている世界。
そこには自分の肉体の全体性は見えない。腕や足などは良く見えるが、一番大事な顔なんて見えない。そんな世界。普段の大半はこの視界から世界を眺め、主に視覚で世界を認識している。

でも、人前に立って、見られることを意識したとたん、客席から見られた自分の姿を想像し始める。その姿は肉体の全体像。顔もしっかり見える。

見る自分と見られる自分だ。
その二人が常にひしめき合っている。
そして、見る自分と見られる自分はその向きが正反対。
前と後ろという関係にある。

ライブなんかに出ると、どう見られるか?見られた映像の方が気になる。
たくさんの人の視線を感じて、見られている世界でがんじがらめになる。
それは確かなことだが、その感覚っていったいなんだ・・・?
見られている映像は実は自分の視界では直接映せない。
想像的な世界だ。
だから、動画や写真で撮ってもらって見ることになる。
ワンクッションいるのだ。

しかし、見ている世界は見ている世界。
ダイレクトに見ることが出来る。

この見ている世界の主体は誰なのか・・・?ここが面白い。

この主体のことを僕は顔の無い自分と呼んでいる。
では反対にあるのは何か?
圧倒的にあるのは他者の顔。顔、顔、顔。まさにFacebook。

この世界の顔は他者の顔といってもいい。他者の顔が既に自分の顔なのだ。そんな世界。

だから僕らは誰かの笑顔を見るのが好きなはずだ。

それはそうだ。それは結局、自分の笑顔なのだから。

そんな二重化したような世界に住んでいる僕ら。

そんな世界に気が付いたのは、ここ数年、最近のこと。

それまでは、見られる自分の世界に生きていた。
つまり、どう見られているかが気になっていたのだと思う。
それはとても受動的な存在、在り方。


見られる世界から、徐々に抜け出してきたのは、ある意味見られる自分への期待度を減らすことが出来たからだろう。

他人は他人のことを好き勝手に見るものだ。
そこはコントロールしようも無い。先回りしてそこに意識を向けるより、見る自分、今ここで見る自分に意識を向けた方が面白い。


そんな気持ちの変化から、僕の世界から段々僕の顔が消えた。

その代わり、圧倒的な色彩の生に満ち溢れた世界の顔が見え始めた。

ずっと、ここにあったんだなと思う。

満ちている世界とたくさんの笑顔。

今ここに咲いている花。
今ここで輝く星たち。


見る自分の世界は豊かさで溢れていた。