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アンドロギュノスとカゴメ歌

アンドロギュノスとは両性具有の神様。
男性と女性の両方を兼ね備えた神様と言われる。

これを今の人間の立場から見ると、性別に関すること、肉体も絡めた性別の融合を意味している神様のようにも思える。
だから、現実的にはよくわからない概念になってしまう。
強いて言えばジェンダーフリーを表しているのかな?というくらい。

なので、ちょっとここのところの考え方を変えてみる。
男性と女性との対比ではなく、陽と陰とか、プラスとマイナスの対比として捉え直してみる。
すると、少しイメージが変わってくる。

男女の対比ではなくて、例えば光と影の対比として考えてみる。

そうした時、例えば目の前に何か物質があるとする。
それに光が当たり、その結果、影が作られてくる。

ここに光と影を発見する。

だから、光があれば影があるのだな、と思う。

この解釈も、少しは近づいたけど、まだ足りない。

光も見えている。
影も見えている。

本当のことはカゴメ歌に歌われていることがヒントになる。

夜明けの晩に鶴と亀が統べった

後ろの正面だあれ?

この歌から解釈すると、本当は後ろの正面と、前の正面という対比こそが大事なのだ。本質なのだ。

つまり、前と後ろ。

常にわたしたちの視野世界には前があったら、後ろがある。
前は見える、後ろは見えない。
向きを変えても見える映像の裏には見えない映像がくっついてくる。

見えるは自分の位置から発せられる。

では、見えないはどこから?

見えないは自分の後ろ。
自分の後ろは向き合った誰かが見ている世界。
それは多数いる。人の数ほどいる。

だからそこはある意味わたしからすると、実体のない世界。

他者の前の世界はわたしにとっては、実体のない世界としか言いようが無い。

この、前と後ろという空間、世界をしっかり認識するのが真の統合の時代。

心の中で一つだ、統合だ、と思うという次元ではなくて、今見ている空間にその統合を明確に見出すこと。

だから目を閉じて瞑想しても到達は出来ない。

到達する境地でもなくて、ある意味、ありのままを見ることなのだ。

前はいつも、ここから繰り広げられる絶対的なワンネス。

後ろはいつも、向こうから無数に生み出されてくる圧倒的多世界。

ワンネスという単と多世界という複が矛盾なく統合された世界が鶴と亀が統べった世界だ。

後ろの正面は常に変化し、変わり続け、揺らぎ続ける。

でも、前はいつも圧倒的にある。

わたしの前の世界はわたしの世界では圧倒的にある。

しかし、あなたの世界においては圧倒的にない。

それはあなたの後ろだから。

このように、わたしとあなたが正反対に反対向きになって、世界を経験させられている
それが人間という世界。

ここを踏まえると、この世の矛盾や不条理の根本的な理由がわかってくる。

あるとないが、わたしとあなたでひっくり返っているのだから。

それに何とか同一性をもたらしてくれているのは「言語」。

言語にはひっくり返りがない。

ワンネスはワンネス。

しかし、わたしたちは言葉だけの世界に生きている訳ではない。

この空間に生きている。

目の前に繰り広げられる、この世界に存在している。

これからの時代に必要なのは統合であることは間違いない。

しかし、この統合を言語、概念だけで探究しても、片手落ち。

空間認識が伴ってこそ、統合の本質がわかる。

そこに気がつく時代になってきた。

スサノオノミコトは実はアンドロギュノスなのではないかと思っている。

その謎は出雲の須佐神社にあった。

須佐神社はスサノオノミコトとアマテラスオオミカミが向き合って祀られている。

お互いが後ろの正面同士なのだ。

この二神がぶつかり合うところに時間と空間が生まれている。

須佐神社


天照社

スサノオノミコトは今、この時代を待っていた。
鶴と亀が統べる統合の時代を。

新しい時代は出雲から始まる。

国津神の復活。

いつも、ここから感じている。

新しい時代の息吹を。

新しい世界の在り方を。