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変化として、わたしたちが生きている

昨日たまたまこの動画をYouTubeで見た。
90年代後半にNHKで放送されていた番組。真剣10代しゃべり場。

僕は千原ジュニアと同世代。
番組当時、彼の年齢は28歳。既に吉本の芸人として活躍していた。

対して、10代の若者たち。
10代の彼らは自分が分からない。
将来が見えない。悩む。
だからこそ、みんなで話し合う。
答えを探そうとする。

しかし、千原ジュニアはそれを『ぬるい』と言う。
答えなんて分からない。分からないけど、行動をとったから分かったことがあった。
若いんだから、わからないのは当たり前。
だから悩んでないで動け。

ありがちな、大人対子供の図式で討論は進む。

こんな時代があったなと思う。
90年代後半、こういう議論がテレビ番組でも積極的になされていた。

大人はいつもグダグダ言わず、『動け』と若者へマウントをとる。

行動こそ全てと言う。
動かなければ何も始まらないと訴える。

若者は動けない。わからないと言う。

それを見て大人は自分は動いてきたと説得する。動いてきたから今があるという。
それはそうだ。動いて結果を出した大人が討論に入っているのから。

要は動くか動かないかの間で討論が続く。

動くこと以外に自分を表現する術はないだろうという大人

動かなくても、考える、悩むことも生きる表現じゃないかと訴える若者

討論を聞いていて、土台にある社会の構造イメージが大きく異なっているということがわかってきた。

千原ジュニアと彼ら若者のジェネレーションギャップはたかが約10歳。

しかし、明らかに見ている景色、世界が違う。

それは動くことの概念の違いだ。

旧世代にとって動くとは見える形で行われること。その動くは言い換えれば、インターネットが無くても表現出来ること。

しかし、新世代の動くは物質的に見える形だけではなく、インターネット内でやり取りされる文章交流、最近では動画交流も含まれている。
こういった表現、交流はネットにコミットしていないと見えない。

たかが、10歳の世代間の違いでこんなにも世界が違ってしまっているのだ。
そこの世界に対するリアリティの差だ。

もちろん、この番組の収録当時はその後のネット社会のイメージが共有されていなかった為、彼ら新世代が言っていることは絵空事に見えた。

しかし、月日が流れ、特に2020年の時代の変化。
色々な動きがネットに集約されている今の世界を見ると、新世代が言っていたことも納得出来る。

動く動くって言ってたけど、やっぱり既に動くことの限界があったのではないかと思った。
物質的、現実的な世界はもう既に終わっていた。
その当時新世代はその限界に気づき、だから話し合っている。
彼らが作りたかったのは新しい世界だったように思える。

これから敢えて明らかなディストピアへ進んでいく必要はない。
新世代はその風潮をひしひしと感じていたのではないかと思う。

90年代後半に既に社会に出ていた世代とこれから社会に出ていく世代でやはり大きな溝があったのだ。

(旧)やりたいことを行動ですればいい。

(新)やりたいことなんて実はない。自分が存在している世界を立て直したい。

これだ!
これがまさに、失われた世代の本音だったんだ。

となると、また旧世代は言う。じゃあそれを行動で表せ。
世の中を変える行動を起こせ。

新世代はそれに対して言う、どう変えていいのかわからない。
彼らは堂々とわからないを言える世代なのだ。

あの当時、90年代後半、学生だった子たちも、今では大体30代半ばの年齢。
きっと社会的には中心的立場になったり、家庭を持っている人たちもいるだろう。

あのときグダグダと悩んでいた子たちがその後、今の時代を作ってきた。

結局のところそれが、インターネットという仮想的な世界と、現実が重なり合っている今の世界の様相となって表れている。

番組の動画を見終わった感想として、「彼らが今のこの世界を作ったんだ」と思った。

今の世界は、やはり彼らが作りたかった世界。
悩んでいることが正当化される世界。
行動という形ではなくても何らかの「表現」に集約されていくことで価値となっていく世界。
彼らはそんな世界を作りたかったんだと思う。
表現には正解は無い。
直接的なぶつかり合い、限られた椅子を奪い合うという概念は希薄だ。

そんな世界を結局彼らは彼らなりの方法で作り上げたのだ。

これはどっちが勝った負けたのは無しではない。
ある意味、人間の意識変化、進化と見てもおかしくない。
その意識が新たな世界、価値観を生み出した。

その前哨戦を見ているようだった。

今はこうして、動画で映像で伝えることが出来る。
その当時の若者が、真剣にわからないと言っていたことが映像を通じて伝わる。
誰一人ふざけていなかった。真剣だった。
そしてわからないが主張出来る、わからないで生きていける時代を作った。

わからないで生きていける時代こそが、人間意識の進化の方向だったのか。

それまではわかっていくことを進化の方向と思っていたはずなのに。

どこかで進化の方向が反転したことは間違い無い。
しかも、短い期間でグレンとひっくり返った。

そんな激しい時代変化を生きている。

もうそれは変化として、わたしたちが生きていると言ってもいい。

そんな激震の時代を生きてきたんだと、まざまざと感じた。