集合知は百花繚乱な色で輝き出した
集合知とはネットで調べると・・・
たくさんの人の意見や知識を集めて分析すると、そこからより高度な知性(的なもの)が見いだせるというもの。 集団的知性とも呼びます。 個々の知識の特性ではなく、それが大量に集まることによる現象を観察するので、熱力学やコロニーを持つような生物にも似ています。
と書いてあります。
この言葉を僕がよく意識していたのは、今から十数年前。
こういった本の中にweb.2.0というこれからのwebの世界のことが書かれていて、それまでの10年間のインターネット社会を振り返り、これからのインターネット社会を予想する、そういった切り口での未来予測が盛んにされていました。
この本のなかでは、こちら側とあちら側という分け方がされていて、こちら側とは社内や閉ざされたウェブ環境。あちら側とはGAFAなどのグローバルかつ、WEBサービスのプラットフォーム的存在の環境。
当時の未来予測としては、あちら側のシステムの中に入っていくことで、コストダウンが達成され、あちら側を上手く利用していくことが、進化の波にのること、という論調があったと思います。
そういった、未来予測がされていましたが、それはまさにドンピシャ!
今、そういう時代、環境の中にわたしたちは住んでいます。
この集合知と心理学的でいう、集合的無意識は元々は同じようなところからきていると思うんです。
違いは、意識化されているかどうか。
集合的無意識は無意識だから、その様が見えない。
しかし、集合知は見える、ネットを通して。
そういう、大きな変化がおきているんだと思います。
インターネット社会は圧倒的な見える化を進め、意識化を進めています。
それは良し悪しで決めれるものでは無く、大きな社会の流れ。
だから、それ自体の是非を問うのではなく、その流れのなかで、自分をどう存在させるかの方が重要だと思うんです。
そう考えると、それまでの集合的無意識が集合的意識に変換されているとも見て取れます。
この変換をインターネットでやっているんです。
こうして、僕が言語化し書いていることも、インターネットが無い時代だったら、ざっくり集合的無意識の力だった・・・という一言で終わりそうなことが、言語となりコンテンツとなり、また集合知のなかに組み込まれていく。
そんな進化を遂げていると思います。
どの集合知に入るかが、どのプラットフォームに参加するかの違いになるし、それによって意識化、言語化されることも違ってきます。
やはり、インターネットは知の革命だったと思うし、既にこの世界無しでは僕らは生きていけません。
十数年前、耳にした集合知という言葉は無味乾燥で機械的でしたが、今その世界を体現すると、知だけではなくて、みんなの個性や感情も乗っかっていて百花繚乱。
そして、集合知から生み出されるアート的な部分が草の根的に広がってきたと思います。
アートの民主化
あちら側のインターネット環境に居を構えれば、それまでコスト的に難しかったことが、やりやすくなっていることは間違いないですね。
知もアートも民主化されたことにより、それまでは一部の層だけで保持していた価値も崩れていくことになります。
そもそも価値ってなんだ?
そんなところにまで、影響を与えているweb進化。
やはりインターネットは革命でした。
そんな革命の時代を生きてきたんだと思います。
集合知時代に於いて、価値とは単体、静的なものではなくて、繋がりや動的なものに変わりました。
その繋がりを作っていくことや、その動的なエネルギーを注入し続けることが、価値の源泉・・・そんな気がしています。
どんな繋がりに自分がいるのか?
自分はどんなエネルギーを発することができるのか?
そういうことを常に意識して、この社会を生きていくことが重要になってきます。
そして、それは個で行うもの。
だからこそ、自分と向き合う時間は不可欠。
今の時代の最も重要なポイントがここに集約されていく理由はここです。
そして、ここを分かっている人は既に動き出している訳です。