なぜ回転なのか?
先日、回転という不思議という記事を書きました。
何やらこの世界、生命には回転というイデアが潜んでいるのではないか・・・?
そんな考察の話をし始めた訳ですが、改めて、回転っていったいどういうものなんでしょか?
そこで、一旦、大きく世界をひろげてみましょう。宇宙です。
宇宙を意味する英語・・・ユニバース・universeから考えてみましょう。
ユニバースの語源は、uni-「1 つの」verse「向きを変える」というところからきているようで、「すべてが一箇所に集まるもの」というイメージが語源になっているみたいです。
verseが「向きを変える」という意味で、そこから、バーサス・verses=対する、という意味に派生しているのでしょう。
向きを変えて、一つにすること、この動きがつまり回転と言えますね。
回転はくるくる回るということですが、これはよく考えると向きがどんどん変わって、一周するということですね。
例えばひとつの直線があります。
この直線の端と端を結ぼうと思うとどうしたら良いでしょうか?
そうすると、円が生まれます。
直線だったときは相反する方向を示していたものが、回転させることにより、ひとつにまとめることが出来る。
つまり、相反するものをひとつにまとめる、それは回転、そして、それが宇宙ということです。
普通イメージする宇宙は広くて大きい、空間的なイメージがあると思います。
輝く星たち、どこまでも果てしなく広がる宇宙というイメージ。
しかし、universeの語源からすると、相反するものが、一つになったというイメージ。
それってどういうこと・・・?
それってもしかしてこの物質的な宇宙のイデアの姿かもしれませんね。
イデアについては・・・
わたしたちが見ているこの宇宙が何かの影だとしたら・・・
その本質は全く別の姿をしている。
それこそが、
universe⇒相反するものが一つになった状態⇒回転
つまり、回転は宇宙のイデアなのでしょう。
そして、更に詳しく見てみると、相反するものを考える必要があります。
これは例えば、始まりと終わり、多いと少ない、大きいと小さい、陰と陽、など二元の世界ですね。
二元の世界は有るの反対は無い、などのように片方が決まれば、片方も決まる関係です。
例えば、右手と左手にすっぽりボールを握っています。
どちらにあるかないかは、片方の手の中を見れば、答えが出ます。
片方を決めると、自動的にその反対の答えがでる。
右手の中にあれば、左手の中にはない。
左手の中にあれば、右手の中にはない。
それは現実世界では当たり前です。
でも、宇宙は回転です。
相反するものを一つにしたものなんです。
そう考えると、このあるとないの二元を統合しないといけません。
あるとないと併せ持つ。
あるけどない。ないけどある。
それが宇宙のイデア・・・?
と、考えた時にこの状況のヒントになる、科学的根拠を思い浮かべました!
それが・・・素粒子です。量子の話です。
最先端の物理学はほとんどこの分野の研究をしていると言われていて素粒子物理学とか、量子力学とか、なんとなく聞いたことがあるという人も多いと思います。
素粒子って、モノの最小単位ですよね。今、分かっているモノの最小単位。ミクロの世界。そのミクロに対して、もっとも大きいのは宇宙空間、マクロ。ここには大きさの二元がありあます。
そして、この二元が回転する。統合する。
大と小が回転で、一つになる。大きいと小さいが重なるような状態になりました。
イデアの世界は不思議ですね。
通常考えている当たり前の世界では考えられないアイディアを示してきます。
そして素粒子の話に戻すと、そもそも素粒子は粒(物質)である状態と波(非物質・可能性の波)の状態を併せ持っていると言われます。
そして、その状態を決定付けるのは観測されるかされないか。
つまり、人間の観測により粒か波か、その姿を変えてしまうのです。
にわかに信じられない振舞いですよね。でも実験の結果それは自明の事実。
この見た時には粒子化して、見ていなときは波動化するってどういうことでしょうか。
ここからはいつも思考の手助けになっているヌーソロジーの考え方を基にします。
ヌーソロジーでは身体の前と後ろという関係を重要視します。
わたしたちはいつも前しか見ることは出来ません。
後頭部の方を振り返っても、その方向が前になるのでいつも前は前です。
一人の人にとって見えているのはいつも前。
この前の世界には自分の顔はありません。というか見えませんね。
これがひとりの人からすると、いつも見えている世界なんです。
素粒子で言うと粒の世界です。きちんと見える世界です。
これと反対の、見えない世界があるとして、そこと、回転させてひとつにしなければなりません。それが宇宙の創り方、回転。
としたときに、見えない世界ってどこですか・・・?
目を閉じる・・・?
心の世界・・・?
いや、もっと身近です、それが後ろの世界。前に対する後ろです。
そう考えた時、素粒子が観測されていない時は可能性の波という感覚はなんとなくわかります。
自分の身体の後ろの世界は、観測していないけど、ありますね。
自分の前⇒見える
自分の後ろ⇒見えない
この前と後ろを回転させると、宇宙が出来る。
そして、素粒子もそもそも、見えると見えないを併せ持っている。しかも素粒子は中心の回りを電子が回っていると言われます。
ここらあたりを総合して考えると、回転が宇宙というイデアが何となく感覚的に分かってきた気がしませんか?
そして、このお話の最後の一番重要なところ!
自分の後ろって?
かごめ歌でも、うしろの正面だあれ?と謎をかけられています。
自分の後ろは、・・・対面する他者に見られた姿、見られた時に浮かぶ像です。
他者にはわたしの顔がばっちり見えています。
他者はわたしの顔が見える世界にいます。
そして、普段、わたしにとってのわたしの顔をみるにはどうしてますか?
そう、鏡を使いますよね。
鏡を使ってみるあの世界は、他者が見ている世界です。
そして、鏡を見ると、わたしの顔とわたしの後ろの背景が映っています。
それは、いつも他者が見ている世界です。
ここでも相反する二元が出てきました。
前と後ろ、そしてそれはわたしとあなた・・・
つまり・・・宇宙はわたしとあなたで出来ている!
ということになります!
すごい世界観!
これもよくよく考えないといけません。
わたしとあなたで出来ているというのはイデアの話です。
実際に見ている具体的な人をイメージしても本質と少しずれます。
わたしというのも、見ている精神の方、あなたというのも、見られている精神の方です。
見ると見られるが、回転して、一つになって、世界が出来る、ということです。
そう考えると素粒子の振舞いも納得できますね。
ここのところの宇宙観を踏まえないと、素粒子のことも理解できないし、世界が何で出来ているのか、本質的なところの理解が出来ないと思います。
確かなのは、決して物質から世界や宇宙が出来た訳ではないということ。
そして、わたしたちもただの肉体を持った生命体ではないということ。
わたしたちの精神が前提にあって、そこから物質的な世界が宇宙がつくられているということ。
そういった、世界観を描いた方が、ごく自然じゃないかと思うんです。
そういう前提に立って、物事をみると、やっぱり今までとは違うパラダイムになってくると思います。
大きなパラダイムシフトです。
僕は今、このパラダイムシフトをなんとか、自分の言葉で説明したいと思っています。ちょっとこのあたりの言語化を引き続きやっていきたいと思います・・・!
それがすさのわという場所が生まれた一つの意味ではないかと思っています。