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自分に語ることを誰かと共有している

ブログを書いている人の中には備忘録として書き残している人も多い。
自分の為に書いておくことを、他の人と共有するという感じ。

ちょっと考えてみたら面白い状況。ブログ文化が発達するにしたがって、こういった自分に語る為の文章が自分の為だけではなくなった。
それが発信の種になる。発信がこうしてオープンに行われることで、それまでには無かった立ち位置での表現の形が生まれたことは間違いない。


自分に語ることが動機ではあるけれど、それはまた誰かと共有することでもある。


インターネットが進化していく過程で「web2.0」という言葉が盛んに言われていた時期があって、そのキーワードが「集合知」だった。
それぞれの頭の中にある「知」を集める場所。
そういった概念があったと思う。

最近はそういうことが言われなくなってきていることを考えるとすっかり定着しているということだろう。

「集合知」といわれる世界にわたしたちはもう既に住んでいる。

考え方を共有したり、スキルを共有したり、感情を共有したりすることが当たり前になってきた。
集合知または集合意識のようなものが曖昧な漠然としたイメージではなくて、ネット内に視覚化できる場所として浮上してきた感じがする。


知や意識が集まる場所。インターネット、そのネットワーク。
そういう場所が出来た結果、そこに住む意識体としての人格みたいなものが出来た。
ネット社会が広がればそういう人格が出来るということは予想されていた。そういったことが現実となった今、それをどう思うか?


少し前までは、このような社会の姿は「未来都市」のようなイメージで描かれていてある意味、神秘的でさえあった。
でも、その現実が訪れてみれば、当たり前の日常だ。
少しずつの技術変化や意識変化だから、急激な変容は感じない。
でも確かに、未来はやってきた。
そんな風にして当たり前に受け入れて、また新しい未来に向かっていくんだろう。


わたしたちが迎えた未来は、「自分の内面を誰かと共有することをあたりまえにする」ということだった。


それって、良く考えるとすごいこと。
何故なら、それまでは基本、人と共有出来ないことを内面と呼んでいたから。
自分にしか分からない、他人が知りようのないことは「内」、反対に、誰でも知ることが出来る部分、容姿や見た目、肩書、役割、そういった情報的な部分を「外」と呼んでいた。

しかし、それも他人が普通に知れるとなると「内」という概念が変わってくる。
それは自分の内面という概念が変わることを意味するのかも知れない。


そうして、見ていくと、もしかして、人間の内面と外面がひっくり返ってしまうのでは・・・?
そんな先の未来予想も浮かんでくる。

内面は精神的な部分、心、それは見えないとされていた。
しかしそれが見えている世界のこと。
反対に外面、物質的な部分、言語化される部分、関係性は見えていると思い込んでいた。
でも実はそれこそが見えていない、ただの概念化、想像しただけの世界なのでは?

見えているものの反転。
見えているということの原理が反転する。


そういったことが起こってくるのでは、と思っている。

このような考えは僕一人で思いついた訳ではない。
当たり前を反転するパラダイムシフトは到底一人でなんて出来っこない。


そこの辺りのヒントは数年前から学んでいる「ヌーソロジー」という思想体系が基になっている。
ヌーソロジーは空間の認識を反転させて、全く新しい見方をしていくような思想体系。そこに客観的な幾何学構造を見出して、決して精神というものを曖昧な存在として扱わない。
哲学と言えば哲学とも言えるけど、もっとソリッドなイメージ。
このように考えると幸せになれますよ的な要素は一切ない!

そういったことをここ数年学んできたからこそ、今の社会の在り方を自分なりに言語化して説明することが出来るのかも知れない。


こういった、考え方は本でも吸収したが、YouTubeなどの動画の力も大きかった。
ヌーソロジー提唱者の半田広宣さんのレクチャー動画を何度も見て理解に努めた。

こういった変化も集合知社会だからこそ、起こりえたことかも知れない。


そんな大きな意識変化の只中にいる。
只々、この時代変化を受け身で体験するだけでは、もったいない。
ある程度の社会構造、変遷を理解して、今起こっていること、これから起こりそうなことを想定しながら、能動的に思考していくと面白い。


もしかしたら、今しかない、今しか体験できない、特別な体験をこうして生きているだけでやれているのかも知れない。


そんな毎日、そんな日々であるのなら、尚更こうして書き残しておかねばならないと思う。