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物部氏とは?その3(終)179/365

物部氏に注目して、解説記事を書いてきました。

その物部氏とは?シリーズの最終話です。

物部氏のことを考えていく上で、まず同氏の始祖ニギハヤヒについて考察しました。

具体的には、日本書紀に書かれた神武東征のお話を神話ではなく、古代史として解釈し直して読み替えるという方法です。
その読み替えの延長でニギハヤヒ、そして神武天皇の実在の姿を浮き上がらせました。
ここのところの解釈は歴史学者・関裕二さんの説を参考に組み立てています。(参考文献:「新史論」(小学館))

そして、いよいよ、最終話です。

物部氏を探っていくと、ヤマト建国に大きく関わっていたことがわかってきます。
しかし、記紀ではその存在はあまり取り上げられません。

この理由は明らかで、記紀が編纂された奈良時代に律令国家を作り上げた当時の政府にしてみると、それ以前に勢力を持っていた側のことを良く書くはずがありません。歴史は常に勝者の歴史です。
そういった理由で、あえて無視したり、ネガティブな表現で書くことは、新しい歴史を作る側の常套手段。
だから、物部氏のことは正当な国史としてはあまり語られていないのではないでしょうか。

しかし、記紀以外の書物やその他、その土地の歴史などを多方面から見れば、もう少し事実に近い形の古代史が見えてくるはずです。

そういうことで物部氏を知っていくには、定説からだけではなく、色々な側面からの考察が必要になるのです。時には疑ってみる視点も・・・

それでは本題、物部氏とは?に入ります。

その2でも書きましたがヤマト建国時当初は、吉備出身の物部系、瀬戸内海勢力が力を持っていました。

しかし、徐々に日本海側勢力にその力が譲られて行ったようです。

そのことを表す、天皇交代劇があります。

第25代武烈天皇が6世紀に後継者を残さず亡くなってしまい、その後新しい天皇を擁立することになります。

その時に抜擢されたのが越前國にいた、男大迹王(をほどのおおきみ)(『日本書紀』より)

この男大迹王が後の第26代継体天皇です。
男大迹王、家系としては応神天皇の5世孫にあたります。

ここでわざわざ越前、日本海側から次期天皇を招いたということは当時のヤマト政権の力関係を表しているのではないでしょか?

瀬戸内海側優位だった、勢力地図が徐々に日本海側優位に移っていたと考えられています。
この時代はタニハ(丹波、丹後、但馬)と出雲が連携し主導権を日本海側に移し、環日本海文化圏を築きていたと推察されます。

そしてこの頃から力を持ち始めるのが武内宿禰の子孫、蘇我氏です。
武内宿禰は日本海側出身。

この頃からヤマトは天皇を中心とした中央集権化を図ろうとしたようです。

中央集権化に協力的だったのは、蘇我氏
継体天皇も越前からやってきているし、日本海側はまとまりやすかったでしょう。

対する、瀬戸内海勢力の物部氏。
初めは抵抗をしますが、徐々に日本海側の勢力に取り込まれて行ったようです。

そこで、思い浮かぶのが、物部氏対蘇我氏の対立。

仏教を導入の是非で対立し、物部守屋と蘇我馬子で戦った、丁未の乱(ていびのらん)。
この乱で物部氏が滅亡したと定説では伝えられています。

しかし、ここでも深読みです!

不思議なことに、物部氏中心の史書、先代旧事本紀にはこの丁未の乱は出てこないというのです。
物部氏が滅ぼされたというような乱であれば、史書に残すのが当然でしょう。
その他、物部守屋の子や孫の名前も出てくるというのです。

また、先代旧事本紀の天孫本紀には「物部氏の女性が蘇我氏と結婚して蘇我入鹿を産んだ」と書いてあります。
これも定説からは考えれない内容・・・

先代旧事本紀では、物部氏は蘇我氏のことを、必ずしも敵対した存在とは書いていないようです。
おそらく両氏は、いわゆる政略結婚などを通して、同族的な関係に近づいて行ったと考えられるのではないでしょうか?

そして、蘇我氏は天皇を中心とした中央政権国家を作ろうとした、というところですが、ここも定説とは齟齬を来します。

初の中央集権国家は聖徳太子、中大兄皇子によって飛鳥時代になされたというのが定説。
天皇より高い権力を持つようになってしまった存在、蘇我入鹿を中大兄皇子が暗殺したのが乙巳の変と教科書で習いました。ここから大化の改新が始まります。

しかし、蘇我氏は天皇を中心とした中央集権国家を作ろうとした存在。
蘇我氏は物部氏とも和合し、公地公民による中央集権国家を作り上げていたのではないかと考えられるのです。

教科書で習った内容とは違っていて、ちょっと驚きです・・・!

しかし、奈良時代に正当な国史としての『日本書紀』を書いた当時の政権、藤原氏を中心とした政権が自分達の功績であるように書き残した可能性も十分あります。しかも蘇我氏を悪者に仕立て上げ。

『日本書紀』は少々疑いながら読むべし・・・(笑) Byすさのわ

という感じで、物部氏という名前は歴史の表舞台から消えたような感は否めませんが、実はヤマト建国、そして、初の天皇中心の中央集権国家作りを蘇我氏と協力して行った豪族であったと考える説も有力なのではないでしょうか?
これはあくまで一つの仮説ですが。

ただ歴史の試験で良い点を取ろうと思えば、こんな考察は無用です。

「日本書紀に書いてあるから〜」で○です。

しかし、その土地の本当の歴史、本当の文化を知りたいと思ったら、それだけでは足りません。
そもそも、歴史には正解はありません。
実際は過去のこと。過ぎ去ったこと。
誰もその真実は分かりようがないのです。

しかし、わたしたちには本当のことを知りたがります。
それは過去からずっと、人から人へ言い伝えられてもきました。

今回、物部氏のことを調べるに当たって、何か不思議な感覚を得ました。

この世界には、書かれていない、明確に意図して残されてはいない物語がたくさんあります。
いや、むしろその方が多いはずです。

本当は実体はこっちにあって、世界の主体はこちら側です。

書いて残されたことだけが、あったこと。
残されなかったのは、なかったこと。

そんなはっきりとした、あるなしの話ではないはずです。

しかし、そんなあやふやな観点から過去を振り返る、歴史を振り返るのは正直、骨が折れます。
だから早く答えが欲しくなる。

とりあえず、正しいと言われることだけ知っておこう。
そんな気持ちになりがちです。

しかし、そこで踏ん張って、記述されたことの裏側、行間、そういったものを読み解くことです。
こういう力が今の私たちにも必要な気がします。

これが今この世界を生きている、わたしたちの世界認識、解釈にも繋がるのです。

政府が、権威がそう言っているから、間違いない。
そういう考えだけで、従ってしまうのは危険だと、皆が気づき始めました。

実は、こんなことは既に、奈良時代から始まっていたのかも知れません。
そんなことをずっと繰り返して今に至ったのかも。

ということで、物部氏とは?考えてきた最後の結論は意外なところに落ち着きました。

歴史を深く洞察する力を養うことの重要性。
それは今も続く権力者による情報統制、コントロールを見抜く眼を養うことにもなる。


今の国家体制や経済システムがいたるところで末期症状を迎えているのは、多くの人が同意しているはずです。
しかし、どこを目指せばいいのか分からない。

ここから、新しい方向性を見出すには・・・

今回、物部氏のような歴史の表舞台から消された存在を調べるにあたり、思わぬ方向に意識が開いてきました。

表舞台からは消えても、きっと、その魂は消えていないのです。
それを感じ取れるかどうかは、わたしたちの意識にかかっています。

今ここに存在し続ける魂、霊的なものをもう一度思考できるOSを作り上げることが、これからのわたしたちに求められること。
そんな感覚が芽生えてきました。
過去の歴史に興味を向かわせる力の影に、新しい未来の青写真を重ね合わせられるか・・・?
それが歴史の醍醐味なのかも知れません。

歴史は過去のことではなく、今もここに降り注ぐ魂の物語。

だんだん、そんな気がしてきました。

これをお読みになった方にも、そんな新たな感覚が芽生えていたら嬉しいです!

長い文章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。