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古代ヤマト誕生〜ニギハヤヒは誰を殺したか?【9】ヤマトに棲む闇

知られざるクーデターは成功し、出雲王は排斥され、九州系と吉備系を中心にヤマト建設は進みます。
そこで、ひとりの男がリーダーに立ちました。
実在性の高い最初の大王「崇神天皇」です。

崇神天皇

母のイカガシコメは物部氏に連なる系譜であり、ここに天皇系に物部氏が融合した形です。
彼は四道将軍を各地に派遣して、侵攻を開始。銅鏡を配り、同盟の証として古墳を同じくする という支配方法を強めました。初めて政権の高みに登ったのですから、初めて大和入りしたイワレビコと同じ称号「ハツクニシラススメラミコト」。この称号が2つある謎はこんな理由からでしょう。

しかし大国・出雲勢力を排除したとなると歴史的な一大事となります。血を流したクーデターであったなら、なおのこと。問題にはならなかったのでしょうか?

実は大問題となりました。
日本書紀が伝えるところによると、即位5年
「国内に疾疫多くして、民死亡れる者有りて、且大半ぎなむとす」
つまり疫病が大流行し、大半の民が死に絶えたとあります。
さらに、「民の離反は止まらない」と伝え、各地で反乱・暴動が起きていたと推測されます。出雲の残党が反乱を起こしていたとも考えられます。

そこで悩んだ崇神天皇は対抗策として、皇祖神アマテラスを宮中から出して、笠縫邑(現在の檜原神社)で祀らせます。
が、いっこうに治まりません。
すると天皇の夢に出雲神・オオモノヌシが現れ、
「こは我が心ぞ。オオタタネコをもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」
この災いは自分がもたらしたものである。自分を大和の三輪山に丁重に祀り、自分の子孫(出雲系)のオオタタネコを神官に据えよ、と言うのです。そこで天皇は大和じゅうを探し河内国陶邑にいたオオタタネコを見つけ、オオモノヌシを大王の宮殿目前にある三輪山に祀らせてようやく鎮静化しました。

実はこの記紀のくだりは、”この天災は出雲神の祟りなのだ”と、ヤマトが認識していたことを示す証でもあります。

ともあれ、なんと出雲の神をヤマトに鎮座させてしまったのです。このとき創建されたのが大神神社(奈良県)なのですが、さらにこのあと天皇家は、よほど恐ろしかったのか異なる神を同じ場所で祀ってはいけないと、あろうことか皇祖神アマテラス大神を大和から外へ遷してしまうのです。
考えてみてください。よその神を目前で祀り、自らの神を遠ざけたわけです。
なんという決断でしょう。
    (このときアマテラスとともに倭大国魂神も宮中から遷されました)

笠縫邑(檜原神社)


さらに日本書紀ではこの記載につづけて、「箸墓古墳」の由来について次のように書いています。
崇神の大叔母(7代孝霊天皇の皇女)である巫女のヤマトトトヒモモソヒメが、三輪山のオオモノヌシ神の妻になった。だがヒメは真っ暗な夜しか通わない夫の真の姿がみたくて、朝つい覗いてしまうと、なんと神の正体は白蛇だった。姿を見られ怒ったオオモノヌシ神は三輪山へ帰ってしまい、驚いたヒメは尻餅をついたひょうしにホトを箸で突き、死んでしまった。そこで昼は人が、夜は神が墓を作り、葬ったのが箸墓古墳である、というのです。

現実離れした逸話ではありますが、天災の後にこの記述が登場します。
挿入した日本書紀の意図は、果たしてなんだったか? 
少なくともオオモノヌシ神によって、ヒメは女性性器を突いて絶命したわけです。その意味するところは……。
巫女ヤマトトトヒモモソヒメは、出雲の祟りを鎮めるためオオモノヌシ神の人身御供になったのではないか。
そして妻のホトを突くとは、オオモノヌシの子孫が今後、産まれぬよう呪詛したことを、暗示させるものだったのではないか。

三輪山と対峙する場所に大きな祭祀舞台を作り、
ヤマト最強の巫女によって盛大に出雲神鎮魂の儀式をとりおこない、同時に神の子孫を後世に残さないように呪詛した。
それがあの箸墓古墳が作られたいきさつだったのではないかと思えてなりません。

人々の出雲に対する後ろめたい思いと、畏怖の念を持っていたからこそ、初めてあのような巨大古墳が作れたのではないか と考えます。

対峙する三輪山(左)と箸墓古墳(右)


出雲がヤマト造営に参画していた事実。古代人はそれをみな知っていたのではないか、と思わせる記述があります。
落ち着きを取り戻した崇神8年。日本書紀では、天皇に捧げる歌として掌酒(さかひと=神に酒を醸す人) がこう詠んだと伝えます。

「此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久」
この神酒はわたしが造った神酒ではありません   倭の国をお造りになった大物主大神が醸されたお酒です  幾世までも久しく栄えませ 栄えませ  
                          
(大神神社公式HPより)

実はこれ、とんでもない内容なのです。
国家の権威づけの書物が、オオモノヌシ神を敬うあまり、 日本(ヤマト)を造ったのがオオモノヌシ神(出雲系)であることを暴露してしまったのです。 日本書紀編纂者があえてこの歌をスルーしたのか、うっかり掲載してしまったのか分かりませんが、ここにも大和と出雲の隠された関係が潜んでいたと言っていいでしょう。

現在も、大神神社では、オオタタネコの子孫・大神氏が三輪山そのものを御神体としてオオモノヌシ神を祀り続けています。
一方、大和を追われたアマテラス大神は、大王の皇女を斎宮として従わせ、京都府宮津市籠神社など各地を巡り、その後ようやく26箇所目に今の伊勢神宮に鎮座したと伝えられています。               (次回 最終回)


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