坂道
昔、小学校の頃、あれは・・5年生の時の事。
転校生が来た。その子はとても綺麗な子だった。
クラスの皆は最初の頃はその子に対して興味深々だったけれど、その内に飽きてしまったのか誰もその子に話し掛けようとはしなくなった。
いや興味を失ったと言うより、その子が殆どしゃべらなかったから、結局会話が続かなくてどうしていいのか分からなくなってしまったのだ。
その子はとても静かな子で窓側の席でいつも一人で本を読むか、外をぼうっと眺めているか・・そんな感じだった。体が弱いから外遊びは出来ないと最初に先生がこっそり教えてくれた。体育はいつも見学だった。
授業中も発言は無し。
指名されても小さな声で「はい」と言うか言わないか。
例えば算数で答えを聞かれると、答えだけぽつりと言ってそれでお終い。
国語では長い文でしゃべるのが嫌なのか、首を傾げてお終い。アとかイとかウとかだったら答える。後は〇とか×とか。
音読はしない。歌も歌わない。リコーダーはめっちゃ上手い。
テストはいい点だったから勉強が出来ない訳ではないのだと皆は思っていた。
本当だったらそんなのは許される訳が無いのだろうけれど、何かその子には事情があるのか、先生も敢えて追求しようとしなかった。
子供は「異質」を敏感に感じ取る。彼女は全く異質だった。すぐに分かる。だが、その異質さが不快ではなかった。
例えば居てもいなくても構わないと言う感じ。その子はただおしゃべりが苦手なだけで、誰かに対して無視するとか、嫌な印象を与えるとかそんな事は無かったし、何かをしてあげるとニコッと笑って有り難うと小さく言う事もできた。教室の空気にふわりと溶けている感じ。
友達とわあわあしゃべって後ろを向いたら、そこに普通に座っていて、あれ?そこにいたんだ。みたいな感じ。
私はクラスの中でも元気な方で、休み時間はいつも最初にボールを持って飛び出す様な子だった。だからその子とはあまり接点も無かった。
ところが指を捻挫してしまい、手には包帯が巻かれてしまった事があった。
もうすぐ夏休みだという頃の出来事だった。
しばらくドッジボールは出来ませんとお医者様に言われてしまった。
クラスの皆はどうしたどうしたと言っていたが休み時間になると私などには目もくれないで外に飛び出して行った。ガランとした教室には私とその子だけ。その子は外を見ている。私も一緒に外を見てみた。
みんなが校庭で遊んでいるのをしばし眺める。
「何を見ているの」と尋ねたらその子は校庭のポプラの木を指差した。
「?」
私は鳥か何かいるのかなと思った。つくづく見たが何もいない。
「ポプラ?」
そう聞いたらにっこり笑って頷いた。ポプラを見て何が楽しいのかと思った。
下で遊んでいる友達が私達に気が付いて手を振る。
私は手を振り返す。彼女はしない。
そうやって一週間ほど過ぎた。
私は彼女と・・彼女の名前はハルミさんと言うのだが、ハルミさんと休み時間はポケッと外を眺めた。時に彼女が本を読んでいると私一人で外を眺めた。
時々私達は会話を交わした。いや、会話と言っても私がしゃべり、彼女は頷いたり首を傾げたりふふっと笑ったりするだけなのだが。
それでもあれは会話だったなと思う。彼女とのコミュニケーション。それは多分・・空気だったのではないかと思う。空気を媒介としたコミュニケーション。言葉よりも。
同じ空気の中。同じ色に染まった空気の中に二人でいる。それはなかなか居心地が良かった。
一度彼女と一緒に帰った事があった。
私は何となく一緒に歩いていたら、自分の下校ルートでは無くてハルミさんのルートに来てしまった。どこをどう通って来たのかよく分からなかった。
歩きながら家の事や漫画の話や友達の事をぽつぽつと話しながらここまで来てしまったのだ。ハルミさんは相変わらず頷いたり笑ったり、うんうんと言ったりしていた。
ハルミさんが道で立ち止まって私の手に触れた。
そして道の横にある小さな古い家を指差した。
「ここ。私の家」
そう言われて、私は我に返った。そして辺りを見渡した。
見慣れない風景だ。ここは何処だろう・・・。
幾つかの家が建っている。ハルミさんの家には板で囲いがしてあった。
向うの高台の上ではブルドーザーが動いている。土地を造成しているみたいだ。
隣には芝生の・・・何かな?公園?
私は学校からのルートを思い出した。
あそこの信号をこっちに来て、それからあの・・・
私は困ってしまった。
こんな場所はあったかしら。・・ここからどうやって帰ればいいのだろう。
「待ってて」
彼女はそう言うと玄関のドアを開けて家の中に入った。そしてすぐに出て来た。
ランドセルを置いて来たのだ。
ハルミさんが私の手を引いた。
冷たい手だった。
「こっち」
彼女はそう言った。
彼女と一緒にその道路を歩いて行く。幾つか曲がり角を曲がって結構歩いた。
信号の所に出てみると、見慣れた風景が見えて来た。
「ああ・・何だ。ここに出るのね」
私はホッとした。
ハルミさんはにっこりと笑った。
「有り難う。じゃあ帰るね」
私はハルミさんに挨拶をした。そして手を振った。
ハルミさんも手を振ってくれた。
私は手の怪我が良くなって、以前と同じ様に休み時間はボールを持って駆け出して行く。
校庭で時々教室の窓を見上げた。
ハルミさんがそこにいて外を見ていると手を振ってみた。
ハルミさんは手を振ったり振らなかったり。
長い夏休みが終わって登校してみるとハルミさんの姿は教室に無かった。
「ハルミさんは夏休みの間に転校しました」
先生はそう言った。
誰かが「先生。私はまだハルミさんと話をしていません」
と言って、皆が噴出した。俺も俺も、あたしも。と言う声が聞こえた。
先生も苦笑いをしていた。
「話をしていたのは時田さんとその他数名だけです」
誰かが言った。
「時ちゃん。ずるーい」と誰かが言った。
「声を掛ければ良かったじゃん」
私は言った。
「私だって大して話していない」
そう付け加えた。それは本当の事だから。
一度だけ、自転車で出掛けて彼女の家を探したことがあった。
造成地はあるのにどうしても道が見付からなかった。勿論家も。
造成地を見る方向と距離を考えながら探したが見付からなかった。芝生も見当たらない。
曲がった場所がうろ覚えだった。
見当違いの場所をぐるぐる回っていたのだろうか。
時間と共に記憶が薄れ私は彼女の事を忘れて行った。
名字も忘れて、「ハルミさん」という名前だけが残った。
時折ポプラの木を見ると、彼女の笑顔を思い出した。
いや、笑顔の雰囲気を覚えているのだ。
笑顔も細かい顔の造りも朧に滲んで思い出せなかった。
どんな声をしていたかという事も。
その子が小学校5年生の時の転校生で、数か月でまた転校してしまった子だという事は分かっている。とても大人しくて綺麗な子だったという事も覚えている。一度一緒に帰ったという事も。
大人になった私は町を離れた。
そして随分時が過ぎて帰って来た。
一度、何を思ったのか車でその家を探しに出掛けた事があった。
家が見付からないという事に対して自分で納得できなかったのだろう。
と言うのは、もしかしたら、あれは夢か幻だったのではないかという考えが浮かんで来たからだ。白昼夢だったのではと。もしかしたら自分で作ったお話だったのかも知れないと。
もしそうならちょっとやばいな自分と思った。
だが、造成地は現実に存在する。
大体こっちの方に来る事はない。ハルミさんと一緒に来た時が最初だ。
道が分からなかった位だから。
私のイメージの中に坂道を歩く二人の女の子の姿が浮かぶ。後ろに造成地。そして幾つかの家。店。芝生。古い木造の平屋。黒い板塀の家。
彼女は本当にいたのだろうか。
数人の同級生に聞いても記憶が定かでないと言った。
名前は?と聞かれて「ハルミさん」と答えた。
みんなは知らないと言った。「そんな子いた?」と言った。
朧に覚えていたのはたった2人だった。
それでも私はホッとした。
長く故郷を離れると道はどんどん変わる。
新しい道はどんどんできる。
だが道だった場所が道で無くなるという事は有り得るのだろうか?
昔、彼女と歩いたはずの道は何処を探しても見付からなかった。
造成地の上には家が立ち並び、所々に林も見えた。でもあの道と家は見付からなかった。
家は古かったから取り壊されてしまったのかも知れない。
風景が変わって分からなくなってしまったのだろうか。
私は諦めた。
私はあの時どこを歩いて帰って来たのだろう。
あれは本当にあった出来事だったのかしら。
今でもふとした折に頭に浮かぶ。
こんなに時が過ぎたのに。
学校帰りのランドセルを背負った二人の女の子。ゆっくりおしゃべりをしながら歩いて来る。二人の顔も洋服もはっきりはしない。
でも坂道を歩く二人のシルエットは写真みたいに見えている。
夏休み前の午後の坂道。
楽しかったおしゃべり。あのままもしもずっとあの子が学校にいたのなら
私はあの子の一番の友人になれた気がする。しゃべらないあの子は空気を使ってコミュニケーションを取る。それをどれだけの人が理解しただろう。
ほんのりと優しくて不思議な時間。
通り過ぎるだけの日々の中でふとそこに立ち返る。
わさわさと落ち着く間もない日々の中で何かのスポットに落ち込んだ様に。
そして思う。
ああ、あんな時代が私にもあったのだなと。
あんな不思議な友人がいたのだと。
愛すべき日々。
あの子がもしも幻の様な存在だとしたら、私はあの時何処にいたのかしら。
そう考えて、そしてマスクの中でちょっと笑った。
コロナ禍の時に作った物語です。
創作なのですが、思い出として残っている出来事を元に書いています。私、子どもの時にハルミさんと一緒に帰ったのですが、帰ったその道が、その後何度探しても見つからなかったのです。まあ、子どもの時の思い出ですから。夢とごっちゃになっていたのかしら?
などとも思います。
夢が記憶としてインプットされてしまったのかと。
コロナまた流行っていますね。
暑いからマスクは嫌ですね。
手洗いうがいですね。