・ハーモニー 伊藤計劃 作
金子 みすゞの
「私と小鳥と鈴と」の詩は有名です。
『鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい』
のフレーズはきっと誰もが知っていると思います。
でも、金子みすゞは自死の道を選びました。26歳だったそうです。
この『みんなちがってみんないい』というのは現実世界では大変難しい。
で、その対極にあるのが、この『ハーモニー』にある調和の世界です。
その世界は優しさと協調と思いやりと信頼で溢れています。
「チクチク言葉」はほぼ全滅。
誰かが困っていると周囲の人々は心から助けてあげようとするし一人ぼっちでいる人を見ると仲間に入れてあげようとします。「苛め」なんて存在しません。何故なら子供同士であっても人の身体や精神、ましてや命を損なう事は重大な社会的損失だという認識が浸透しているからです。
まさに誰もが求めて止まない世界です。
この世界に於いて一番大切な物は健康な人間という社会的リソース、即ち個人の肉体は社会全体の大切な資源であり、共有財産という認識です。
「健康を何よりも優先すべき価値観とするイデオロギーの許に、人体は医療分子で精緻に分析され、リアルタイムにモニタされ、己の健康を常に証明し続けなればならない社会、健康の為に自らを厳しく律することが平和と協調を生むと皆が信じている世界」
(ハーモニー 伊藤計劃 早川書房 P331)
「大災禍」
2019年に発生した北米を中心とする英語圏での大暴動。その時RRWという改良型核弾頭が流出し、内2発が北米国内で、他19発が世界各地の紛争地帯で使用された。
その「大災禍」の教訓を生かして地球上では「生命至上主義」が提唱され、国家と言う大きな政府の機能が縮小を重ねて膨大な数の「医療合意共同体」=生府が地球の経済システムを管理するようになった。
人々は体の中に「WatchMe」という医療分子をインストールすることによってネットを通じて「生府」と繋がる。
極端から極端に世界は揺れたんですよ。
「生府」が送って来る情報に基づいて生活を送っているので、肥満や痩身の人はいません。
酒、たばこ、麻薬の類は健全な社会にとっての害毒なので手に入りません。カフェインさえも罪悪とされています。
「WatchMe」と「メディケア」によって身体の不具合は治療されてしまうので、病気や怪我で悩む事はほぼありません。
「生府」に人々は均一化され、安定した暮らしを営んでいます。人々は自分の人生を「生府」によって管理してもらっています。人生の大部分を外注に出しているのです。
プライベートという言葉は死語に近く、またちょっと卑猥な感じがする言葉として分類されています。「WatchMe」によって個人情報は全てオープンになっているし、彼らはお互いの情報を「拡現」によって確認します。これはコンタクトレンズ型の端末。(これなら名簿業者は絶滅ですね)
世界は調和と健康で満ちている。だからって皆幸せかというと、そうでも無い。心の奥底に何がが蠢いている。
この世界を受け入れ難く感じている人々は「自死」を目指し、世界に反発しようとしています。身体を自分のものとして取り戻す為に。
健康の対極は「死」ですから。
けれど、何と言っても医療が発達した社会。
健康体に戻されてしまうのですよ。即死以外は。
でも、こんな世界は「生府」が管理する地域のみ。その周辺には従来の「政府」が管轄する国が広がります。相変わらずの紛争も。
かつて仲間と伴に自殺を試みた主人公の「霧慧トァン」は「螺旋監察官」としてその様な紛争地域に出掛けます。彼女には命掛けでも欲しい物がある。それは個人的な理由です。
難しいですね。人間社会って。
結局人間ってどうにもこうにも救われない存在なのでしょうか。
平等・平和・友愛を望みながらもそれに達成したらしたで、また不具合が生まれる。
健康で安全な世界であっても、また不満が生じる。
結局我儘なんですかね?
自我は捨てきれない。感情は捨てられない。人間だから。社会的存在で在りながらも個人的存在でも在りたい。その中間地点にバランスよく踏み留まるのには、個人としての成長に加えて社会全体が成長していないと駄目。足を踏み外し、どちらかに転げてしまう。
成長って何?
どうなるのが成長?
成長すると幸せになる?
幸せって何?
そんな根本的な疑問を考えさせられる。
「霧慧トァン」は高校時代の友人「御冷ミァハ」の影響を受けて、この世界を受け入れ難く思っています。もう一人の友人「零下堂キアン」も「御冷ミァハ」の信奉者。彼女達はこの世界に「否」を突き付けます。
「WatchMe」にも管理できない領域があります。それは「脳」、それが生み出す「意識」。
「意識」は「調和」にとって大変厄介な問題です。
「みんな違ってみんないい」
そんな世界は果たしてやって来るのか。
完璧な「調和」により完璧な世界が現われる。
完璧な調和は「死」に似ている。
それでも人々は同じように日々を過ごします。何ら変わりのない日々を。
作品中に出て来る道具や武器などの描写が詳しくて、作者は如何にもゲーム大好きって感じです。
私としては首なしの荷物運搬用の「貨物山羊」が気に入っています。
ペットにひとつ欲しい位です。
歪な調和の世界を描き出す、冷たくて残酷な孤高の物語です。甘さや温もりが無い。全く無い。
表紙裏の紹介文には「ユートピアの臨界」とあります。
2008年のクリスマスに「ハーモニー」は初版発行しています。
2009年3月に伊藤計劃さんは悪性腫瘍で亡くなっています。34歳だったそうです。
2201年に発症し2005年には両肺への転移が判明し2006年には肺の一部を除去したとWikipediaにはあります。これは病床で書いた物語なのです。
以前、何で読んだか忘れましたが、もっと書きたい物語があるのに死んでしまうのが悔しくて仕方が無いと、そんな話を読んだ記憶があります。(遺族の言葉だったかも知れません)
「屍者の帝国」の執筆途中でその生を終え、物語は円城塔さんが引き継ぎました。
物語の最後の一文が深く心を打ちます。