旧作紹介・Going my way
『友情』という小説がある。
御大層な名前を持った、ある文豪の作品だ。
その小説はヒューマニズム溢れるタイトルとは裏腹に、三角関係の末の略奪愛を描いた後味の悪い作品で、僕はどうにも好きになれないのだけれど、とにかく、その大袈裟な名前を持った小説家の代表作であることは確かだった。
そして僕と彼との関係を表すには、その作品名を引用するのが最も的確といえるのである。
◆
「あ~、進路か~っ。兄貴はどうやって、今の高校に決めたんだ?」
夕食後。
ミートソースの匂いを振りまきながら、ノックもしないで部屋に入って来ての第一声がこれである。
「恭子。口の周りが汚れていますよ。あと、服はもう少しきちんと着たほうがいい」
「あれっ、口になんかついてたか? なんなら兄貴が舐めとってくれてもいいんだぜ?」
「残念ながら、僕は妹に欲情する気はないんで、代わりにティッシュを一枚あげましょう」
面倒臭そうにティッシュで口元を拭くも、乱れた服は一向に直す気配はない。これが、我が西尾家始まって以来の問題児と言われる、妹の恭子だった。
「はいはいわかったよ~兄貴はマジメなんだから。別にブラひもが見えようがパンツが見えようが、中身がなんかはみ出てようが別にどうだっていいと思うけどね~」
これでも学修院女子中等科に通う才女である。
他人からは羨まれる風貌の持ち主でもあるのだが、しかし実態はこれである。
「で、なんで兄貴は今の高校——明青だっけ?——に決めたんだよ? エスカレーター式のウチを辞めて、わざわざ編入するなんてさ~。あんときはびっくりしたぜ~」
そうである。 この僕自身も妹と同じ学修院グループの中学に通っていたのだが、高校からは世間的には無名の高校、明青高校へと通っていた。
僕は、名門大学へと続くエスカレーターを自らの意志で降りたのだった。
「さあ……? 一時の気の迷い、もしかしたら僕のただの戯言[たわごと]だったのかもしれませんね」
「おいおい、そんなんで学校決めんなよな~。でも兄貴の高校って変な奴がいっぱいいるんだろ? 今度、遊びに行っていいか?」
「ええ、歓迎しますよ。良い刺激になりますからね」
「刺激ねえ~。まっ、楽しみにしておくよ。じゃ~あたしは風呂に入ってくらぁ」
妹は器用にも左足のつま先で尻を掻きながら、僕の部屋を出て行くのだった。
「……恭子も進路調査の時期ですか」
もちろん、僕は進路を戯言で決めるほどポジティブシンキングな思考回路を持つタイプではない。
真実は他にある。それは、1年前のある出来事がきっかけだった。
◆
学修院中等科に通う当時の僕の密かな趣味が、小説を投稿することだった。
投稿といっても、文芸誌の〇〇賞のような大それたものではない。とある人気少年漫画のファンサイトで行われていたSS(ショートストーリー)募集コーナー。誰もがレンタル可能というシンプル極まりない掲示板に書き込みをするだけという、およそ文学賞なんかとはかけ離れたスタイルだったが、漫画自体の人気もあってか、僕が来訪するたびにそのコーナーの日間アクセス数は増えていた。
僕はそのSS掲示板に『戯言使い』というHN(ハンドルネーム)で小説を投稿していた。人気漫画とはいえ、世間ではオタク向け萌えマンガと揶揄[やゆ]される漫画『魔法先生ネリま』。僕はその作品の緻密な設定や巧みな構成が好きだった。
だから僕はその設定を生かし、SFやミステリーなど独自の解釈を加えた作品を投稿していたのだ。
一連の投稿作品から比べたら、僕の作品は余りにも異質だったはずである。
しかし、他の誰かができることを繰り返しても意味はない。これが僕のやり方だった。
始めは受け入れられなかった僕の作品も、何回か投稿するうちに掲示板に感想レスが付くようになる。その数が100を超えた頃には、僕の投稿作品はサイト内人気投票で2位を記録する事になる。
それからも僕は1位を奪取するべく何度も投稿を続けたが、HN『らぶらぶカンナたん』の不動の地位を崩すことはできず、そのまま2位の位置で甘んじることとなる。
『らぶらぶカンナたん』がどんな作品を書くのか気になりつつも、青臭い嫉妬心に取り付かれた僕は、結局、彼の作品が投稿されたスレッドを覗くことはなかったのである。
焦燥感を抱えたまま、授業を受けていたある日の午後。
僕は、先刻もらったばかりの進路希望のプリントのことを考えていた。
提出期日は明日。幼稚園から大学までエスカレーター式で進む我が校の生徒なら、迷わず第一希望の項目に学習院高等科と書く。なんら悩むことはない。それだけのこと。
しかし僕は悩んでいた。このまま、ただ与えられたレールに沿うだけの人生が幸福なのだろうか? 他に道はないのか? 例えば、小説家。
……馬鹿げている。何を夢見ている西尾王太郎? ちょっと二次創作の投稿作品が評価されたからって、小説家気取りか? 白昼夢を見るのもいいかげんにしろよ?
「おい、おまえ何をしている! 聞いているのかっ!」
国語教師兼担任の太田の怒声で我に返る。
「あっ、すいま……?」
予想に反し、太田が立っているのは僕の側ではなかった。
「おい赤堀! おまえさっきから、ず~っと携帯をいじってただろ! 俺にはわかるんだよ!」
太田が眼光鋭く睨む先には、小太りの眼鏡の少年が座っていた。他の誰とも群れることはない彼の、僕の覚えている記憶といえば、いつも教室の片隅で漫画雑誌『マンガジン』を小難しい表情で黙々と読んでいるところだった。
太田の明らかに蔑[さげす]みの視線にも怯むことはなく、彼—赤堀少年—は憮然とした表情を浮かべている。
「ちっ、教師を舐めやがって。携帯は没収だからなっ!」
太田は強引に彼の携帯を奪い取る。
「まったく……なんだ? おまえ小説を投稿しているのか? どれどれ国語教師の俺が評価してやるよ。……なになに、『真帆螺祭の夜に萌え萌えデート』? ふざけたタイトルだな~、おい!」
それから、太田は彼の小説を教室中に響き渡る大声で朗読し始める。
教室は、笑い声に包まれる。小説のギャグがおかしいのではない。集団から逸脱する彼を嘲[あざ]笑う声である。嫌な空気だった。
ただ、僕は考えていた。目をつむって、担任の下卑[げび]た声を聞きながら考えるそれは、おそらく他のクラスメイトたちとは違っていたはずだ。
ご丁寧に、太田は作品の最後まで小説を朗読する。
「……まぁ、30点ってとこだなぁ~。小説家になりたいんだったら、もう少し教科書を読んどくんだなぁ~。な、『らぶらぶカンナたん』! はははははっ!」
「…………!」
その瞬間の感情を、僕は今でも覚えている。
怒りと悔しさと悲しさが入り混じった、あの感情を。
担任の嘲笑を合図にして、再び教室中が笑い声で包まれる中、それまで黙っていた彼が口を開く。
「先生、これ」
先程と同じく憮然とした表情を浮かべたまま、彼は担任に1枚のプリントを手渡す。
それから彼は、担任から携帯をひったくるように奪い返すと、無言のまま教室を飛び出して行った。
一転して、静かになる教室。
その静けさを破るかのように、担任教師はプリントを見ながら、つぶやく。
「進路希望調査。あいつの第一希望、明青高校だってよ! はっはっは、落ちこぼれクンは優秀なウチの学風とは合わないらしいな!」
生徒の誰かが再び笑い声をあげる前に、僕は席から立ち上がる。
「……果たして、どちらが落ちこぼれなんでしょうかね? 彼の小説の素晴らしさが理解できないとは、まったくこの教室内の人間の目はみな節穴らしい。いや、この場合は馬の耳に念仏とでも言っておきましょうか」
「……西尾? ……おまえ、なにを言っている?」
「ただの戯言ですよ。お気になさらず。ところで先生、僕はトイレに行って来ます」
「……ああ、わ、わかった」
呆然とする担任や生徒たちを尻目に、僕は教室を出る。彼に追いつくために。
「待ってください赤堀君!」
彼は、既に昇降口で靴を履き替えたところだった。
「俺を止める気か? 太田の差し金だかなんだかしらないけど、ほっといてくれよ。まさか、わざわざ俺の小説を笑いに来たってか?」
彼は僕の顔を見ようともせず、ただ冷たく言い放った。
「いいえ、正直言って君の小説には脱帽しましたよ。あそこまで書ける人は、なかなかいないですからね」
「なんの冗談だよ。馬鹿にしてるのか?」
ほんの一瞬、彼は訝し気な顔を浮かべ、こちらへ振り向く。
「違いますよ。そうですね、こう言えばわかるでしょうか? 『戯言使い』。どうですか? 『らぶらぶカンナたん』さん?」
その瞬間、それまで濁んでいた空気が氷解する。
「……ははっ、ははははっ! こんな近くにいたのかよ『戯言使い』っ! そろそろやべ~と思ってたんだよ。1位の座も奪い取られちまうってな! 焦って授業中に執筆してたら、太田のバカが邪魔するしよ~。……ったく、おまえのせいだぞ『戯言使い』!」
それまで一言も会話を交わすことがなかった僕たちだったが、不思議と旧来の親友同士のように話し合うことができたのだった。
「で、学校をサボタージュしてしまったわけですが、これからどうしましょう?」
「ゲーセンでも行かねえ? アイマス俺結構育ってるぜ?」
「いいですねえ」
もう僕には、『らぶらぶカンナたん』に対する嫉妬心は無かった。
それは、同じ道を歩く同志への尊敬心へと変わったのだ。
——翌日、僕は第一希望に『明青高校』と書いた進路希望を学校に提出した。
◆
最後にこの言葉を紹介したい。武者小路実篤の詩集からの引用だ。
「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」
親愛なる君に、この言葉を送る。
—了—
2008年頃の作品です。明青高校シリーズという拙作の番外編にあたる作品ですが、わりと自分のなかではお気に入りなので、こちらにも公開致します。
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