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この世界は『想い』が形になるだけのシンプルな世界。

何度も同じ話をするのには訳がある。人間の脳は『慣れていない』ことがとっても苦手だ。慣れていないからアファメーションやおまじないのようなものを何度も何度も繰り返す。時にそれはマントラと呼ばれることもある。

なぜこの様な事を人間ははるか昔からしているのかというと、この世界は『想い』が形になるというシンプルなルールで成り立っているからだ。想いはいずれ時間をかけて形になる。そのためのツールだ。

空を飛びたいと鳥を見て願い続けた人間が飛行機を作る。魚のように海を渡って違う世界をみたいと思った人間が船を作る。山のような畏怖を感じたい人間が高層ビルを作る。

母の想いが聖母マリアを生み出し、父の想いが仏教を生み出し、正義を想ってヒエラルキーを生み出し。平等への想いがお金を生み出す。
この世界を憎んで戦争を生み出し、死を哀れんで平和を生み出す。

人間はそうやって『想い』を形にしてきた。

歴史は重ねがけされていて、その全ては目の前の現実として描き出される。なぜなら、私たちははるか昔から命を繋いできているからだ。

喜怒哀楽という感情は想いを増幅させる装置に過ぎない。比較や差別から生み出され、そのどれもがラベルを剥がせば単なるエネルギーだ。

自分はどう想っているのか?という問はシンプルだけど難しい。生まれた環境や生活していると比較や差別が起きて、それは隠されていく。

本来、国民を思わなければいけない立場の人が人間に憎しみを持ってしまえば戦争になる。一番上が悪いだけじゃない。そう思わせてしまった国民にだって責任はある。逆もしかりだ。

今、目の前にある現実は良くても悪くても『己の想い己で創造したもの』でしかない。人は見たいものしか見ない。どんなに素面だと嘯いても、所詮は私も含めて思い込みの世界にいる。

その想いというのは何も『人の役に立ちたい』とか『みんな幸せになって欲しい』とか人に言えるような大義名分でないことのほうが多い。

サブカルチャーでも『エロ・グロ・ナンセンス』という言葉があるように、人の本音はこのどれかに集約されている。

私の場合は『グロ』に突出しているからホラゲーやホラー漫画が好きだ。これはもう嗜好品なので変えられない。エロやナンセンス好きな人が目を背けるようなグロテスク(深淵)をみるとき私の心はドキッとしているのだ。

非常識の中に隠された本音をいい感じに建前にして人は毎日生きているのだろう。文章を書くのはグロと相性がいい。そう考えると、エロは映像と相性がいいし、ナンセンスは音と相性がいい様な気がする。ゲームには全て含まれていて中毒性があるのかもしれない。

深淵を感じたいという欲を胸に今日も生きる。

最後までお読みいただきありがとうございます、今日もいいことありますよ!