〇〇の裏側系のコンテンツが逆転傾向にある理由を考えていく
最近の推し概念『第四の壁、第五の壁』と関連するんですが。
古くは裏ものJAPANとか世の中的に『裏』とされていた欲望の部分が、今は表になってきていて、逆に裏を作る側が『裏』になって、裏の裏は表じゃね?みたいな現象が起きている。 複雑な時代だ。
例えば、AV女優さんが出てきて現場の裏側を話す。これはある意味表ともいえる。(現実世界で起こってることだから)
アダルトビデオは作品であって現実世界と乖離しているのが前提だったのだが、客席と舞台の壁の崩壊(第四の壁の崩壊)によって作品にのめり込む人が増加傾向になり、逆にこういったものが『裏』とされていく。
『反社』と呼ばれるのも私的には面白くて、ひと昔前はただ『やくざ』という名前をつけられて社会の枠の中に存在していた人たちが、『反社以外の人たち』の発言力の強さからいなかったことにされている。
いや、そうはいったって花火大会のりんご飴を売っている屋台は反社の人がやってるんだから、それを食べて利益だしてるあんたも反社に加担してることになるが大丈夫ですか?と言いたくなってしまう。
(あ、これは例えね。ああ、この説明もめんどくさい)
転売ヤ―とか名前は歴代いろいろあるが、昔はコンサート会場の前にダフ屋がいるのも普通だったし、そういう商売の抜け道を探したりルールの抜け道を探す人は絶対にいなくならない。
そんなことを観察していると『これが表でこれが裏』って無理やり分別することが不自然なのだが、それが人間社会というものなのだろう。
というわけで、私の案としては表とか裏とかいう分け方にするんじゃなくて、『飛行機乗りたい人とつくりたい人は違うよね』という分け方にする方がやっぱり無難なのではないだろうか。
あ、ショートが貼り付けれるようになってる!noteさんありがとう!
この『輪郭ハッキリ勢』がいいのか『輪郭ぼやかし勢』がいいのかって選択できる時代でもあると思うんですね。昔もできたけど社会的にどっちかに偏ってて、今はどっちもおもろいって感じになってきていて。
私は輪郭ぼやかし勢なので、会社ではよくクレーマー対応してたりしたので、そういった意味でも石破さんを推しています(何の話(笑))
私は中国の竹みたいなパキッとする生き方をしててんですが、それが根元から折れられたとき立ち直るのに時間かかるなって思ったので『さとうきび戦法』に切り替えることにした。
森山良子大先生の『さとうきび畑』は戦争のエモさを歌ってるんですけど、そっちの話はさておき。(さておきたくないけどね!)
沖縄って必ず毎年、台風がくる傾向があるけれど、そのたびにさとうきびは眠るように倒れる。倒れることで根元から折れることを防いでいるらしい。しかも、さとうきびってほっといたら伸び続けるので、ある程度のタイミングで台風がきて成長しきらないってことで人間に収穫しやすくなってるんだって。最近は機械が導入されて、ある程度伸びたさとうきびも収穫できるようになったからあまり台風がこなくなったんじゃないか。などと考えてるがこんなことはどうやって立証してらいいのかわからない(笑)
自然現象も逐一変化していっているが、それを異常気象とか名前つけて怖がらせてコンテンツにするのもなんかもうみていて疲れる。
タイトルと切り取り
さて、駄文もここまでくればどうでもよくなってくる。
この動画をみて私は『天才か‥』と思った。
『オリラジ中田の論理的思考力』このタイトルと動画の切り取り方。
これは今だったら『成田悠輔の論理的思考力』とか
『ひろゆきの論理的解決法』とかでそれっぽいの切り抜ける。
これが動画文化の便利さでもあり怖さだ。
メディアの怖さをメディア的に説明した風刺画。
風刺画っていってんのもよくわからんけどな。事実だから。
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モノをみるときの視点と考え方
私が気をつけてるのは『多角的』に尽きると思う。
(椎名林檎が多面テレパシーって言葉を使っててわかってるのかと思ったらあの人は単にデザイン的に使っていたことを知って勝手に悲しくなった)
この方角からみればこう、反対側からみればこう、神視点だとこう。
自分の内的傾向から見るとこう。ゲームやる人はわかるけど、TPSとFPSで見える世界はまるで違うし操作の難しさも、得て不得手がある。
これも経験か。フォートナイトに録画機能があって、プレイ中は自分の背中越しの視点(TPS)だけなのだが、試合が終わると相手の視点と神視点がみれる。これは大会の映像とかもそうだ。
本を読む人は種類にもよるがこれが体感としてわかっていると思う。あまりに本を読みすぎると神視点しかなくなって自分が神だと錯覚するが、それは気のせいで私たちは人間なので内在する自分を見つめた方がいい。
いい人すぎると相手の視点ばかりを気にしてしまうし、悪いやつは自分の視点ばかりを大切にする。私はこっちの傾向が強い。
私がこんなに文章を書かなければいけないのはあらゆるものをあらゆる視点からかくとこんな膨大な量になってしまうからだ。同じ話を何回も違う立場からするしか人間というものはできない。
つまりは『自分視点』⇒『他人視点』⇒『神視点』という感じで優先度が変わるが全ての角度から説明できなければならない。
もはやめんどくさすぎてこれをやる人がどれくらいいるかはわからないが、文系は自分視点によりすぎ、理系は神視点によりすぎ、そうでない人は他人視点によりすぎていることが多くある。
私は神視点から『推し概念』を制作して、それを『自分視点』に変換し、『他人視点』に返るという非情に難儀なことをやっている。
学者さんがやるのは『神視点』⇒『自分視点』までの展開で在り、それを『他人視点』まで展開できてる人はあまりみかけない。
つまり、ルートとしては『自分視点』⇒『他人視点』に変換できる人が『神視点』を手に入れることがいい物語である。がしかし、世の中の多くは『他人視点』なため、『神視点』に変換できるひとを崇め、『自分視点』に切り替える人を貶して上に立った気になるのだ。
ドラマを見て楽しいのは簡単に『他人視点』を手に入れることができ
ドラマの考察が楽しいのは『神視点』を手に入れることができるからで
肝心の『自分視点』はもう土に穴を掘って埋めてしまってる人が大半だ。
ああ、人間ってなんで難儀なのだろう。
カユ・・ウマ・・・。
もはやわたしは言葉ゾンビとなりえた。
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