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目に見えないエグみ(6月エッセイ②)

 最近Netflixシリーズの「ダーマ―」をおすすめされて途中まで見てみた。
 「ダーマー」はアメリカで実際に起きた連続殺人犯のドラマで、文字に書くのも憚られるような残虐行為を行ったダーマ―の人生に迫る作品だった。作品の中には、性的マイノリティや人種に対する差別的な偏見も描かれている。その中でも特にダーマ―と彼の両親との関係性や両親のその後の人生の描写にかなりエグみを感じた。

 父親は仕事で忙しくほとんど家を空け、母親はヒステリックを起こし、泣き叫んでいるまだ赤子の弟もほったらかしで、家庭は崩壊寸前。父が家を空けている間に、母はダーマ―をひとり残し、家を飛び出し、父も新しくパートナーを作り、数か月家に帰ってこない。両親にたくさん傷つけられて多感な時期を過ごしたダーマ―は少しずつ生活が狂っていく。

 一体何が1番エグかったのかというと、作品内で母親が年を取って老人ホームで働く様子が描かれ、謙虚でみんなから頼りにされる人間として、先ほどまでとは見違える姿が映し出される。母親は信頼を置く前任者から仕事を任され、泣いて喜ぶ姿すら見せる。
 彼女は仕事をしながら、“失敗や失望を忘れて、今この瞬間だけを生きることが大切なのだ”というようなことも語るのだけれど、ダーマ―のその後の人生を思うと、そう簡単にはうなずくことができない。父親も新しいパートナーを見つけて、仲睦まじい様子が映し出される。迷惑をかけられた側だけが取り残されて、迷惑をかけた張本人たちは勝手に自分の生きる道を見つけていく。そのことの残虐さの方が心に強く迫った。もちろんダーマ―の残虐な行為も決して許されるものではないけれど、与えられたダメージへの代償は一切なく、過去は過去として「そんなこともあった」程度で人生が前に進んでいき、作品内でダーマ―が独り取り残されていくことの苦しさにエグみを感じた。
 同時に産後うつで厳しく当たってしまっていた母親も被害者であるということを気にせずにはいられない。どんな人も前を向いて生きていくに越したことないけど、無視できない側面をまざまざと見せつけられる。

 今年西加奈子さんの小説「サラバ!」を読んだ時にも、似たような残虐さを感じた。周りを取り巻く人物から自分だけが取り残されていくような感覚。一歩間違えれば自意識に苦しみながら孤独におちてしまう。
 西さんの小説からは、だからこそ受け身じゃなくて、少しずつでも自分から歩み寄って生きていくというメッセージを受け取って、前向きな気持ちになることができた。けれども、自分で自分の人生を進めることができないまま日々を過ごすダーマ―のような人もいるということが頭の片隅で意識されるようになった。
 「ダーマ―」はフィクションではなく、実話をもとにして作られた話という事実が自分には重くのしかかる。

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