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見た目で判断しないで、でも中身だけで判断しないで「ポジ子とネガ乃」歌詞考察vol.4

スキャンダルとまでは行かなくても、元々の印象とかけ離れた行為をすると、かなり厳しいジャッジが下るのが最近の風潮であるように感じる。「そんなことしない人だと思っていたのに」、「信じてたのに許せない」、中には強い言葉で人格を否定するような言葉を投げつける人もいる。特にSNS上では、誰かを叩くことに対して、自らの発言を疑いもしない世界が広がっているように思える。誹謗中傷が良くないと分かっていても、書き込む当人が「これは正当な批判だ」と信じて疑わなければ、誹謗中傷はダメだという考えは機能していかない。

著名人でなくとも、印象という思い込みに悩まされることはよくある。「同じ失敗をした仲間の中で自分だけが怒られた」、「見た目や服装だけで判断されて、嫌な扱いを受けた」のような日常生活レベルでも思い当たる節は多くあるように思う。人から勘違いされて「自分って本当はそんなんじゃないのに」って悩まされることはよくある。

そもそも元々の印象って何だろうと考える。例えば、Aに裏切られた!と感じる人たちの中に、Aと深く関わっていた人、知ろうとしていた人は何割いたのだろう。どれだけ長い時間一緒にいたら、より正確な印象を持てるのだろう。
というか、Aの内面ってどうやって推しはかるんだろう。
"Aに近しい人の噂話?Aの仕事ぶり?Aとの飲み会でポロっと出た本音?"
内面を見ていたら、「まぁ、このくらいはする人だろうな」と思うのだろうか。
外側から見た印象、内側から見た印象、何が正しいのだろうか。

今回歌詞考察をするのはフィロソフィーのダンスの「ポジ子とネガ乃」という曲である。一見ポジティブに見える人でも心に何かを抱えていたり、逆にネガティブに見える人でも輝いている瞬間があったり、印象だけでその人が何者かを語ることは難しい。それでも常に自分に付き纏う印象とどう付き合っていくかヒントをくれる楽曲である。ぜひ一度楽曲を聞いてから考察をご覧いただきたい。

黒髪 ワンダー 何のメタファー?
ブリーチヘア もっと見て 形而下
むき出しで在る正体 Wow ah
息すれば常時ショータイム

「黒髪」と「ブリーチヘア」が一体「何のメタファー」なのか。
「黒髪」=清楚、真面目、しっかりしている、大人しい
「ブリーチヘア(金髪)」=ギャル、テンションが高い、明るい
髪色ひとつ取っても、これだけの印象が浮かんでくる。本人にはそんなつもりがなくても、周りは隠れた意味合いとして勝手に色々なものを受け取る。
だが、「もっと見て 形而下」とあるように、その人たらしめるものは髪の色だけでは決してない。表情、言葉遣い、細かい気遣いなど目につく全てのものがその人の「むき出しで在る正体」なのである。
つい、パッと見た印象だけでその人のことを判断してしまうことがある。だけど、話してみると、最初に抱いた印象が覆るという経験は少なくないだろう。

意外性っていったい 誰基準
しかしながら ちょっとキュンとしちゃう問題
イメージ捲る存在 刺さる問題
普通に夢中になってよ

「意外性っていったい 誰基準」
黒髪や金髪に対する印象として例に挙げたものは僕の主観に過ぎない。意外性は、そうした"ただの主観"との相違から生まれるものだから何が“意外性”になるのかわからないし、狙ってやるのは難しい。
「しかしながら ちょっとキュンとしちゃう問題 イメージ捲る存在 刺さる問題」
歌い出しは、見た目の印象で自分を語られたくないという意思をチラつかせているものの、印象を覆すものにキュンとしちゃう、そういうものが自分に刺さってしまうという隠しきれない本音が出ている。ちなみに、この曲の中で僕が1番好きな部分はここである。
印象と違う部分を目にした時、『うわ、こういう顔があったんだ、最低…。』と裏切られた気持ちに勝手になることもあるけれど、『え、こんな良いところがあったの!』と肯定的に捉える場合もある。印象だけで見てほしくないけど、印象があるからこそ、プラスなことも起こるから“問題”だと嘆いている。
意外性やギャップにキュンとしてしまうものだと分かっていながらも、「普通に夢中になってよ」という少しワガママな気持ちもある。

私自身、フィロソフィーのダンス新メンバーの木葭ののさんを初めて見た時、『強いギャル』にしか見えず怖そうな人だと勝手に思い込んでいた。でも、特典会や普段の様子を見ると、ネガティブで大人しい人柄と、笑顔が素敵でとても柔和な雰囲気にギャップ萌えした経験がある。

ソーダ 好きそうか?
私のキライ 知らないくせに
もー嫌 泣きそうだ

ここでは自分に好意を向けている誰かが差し入れをしてきたという状況を想像してみる。
この歌詞の登場人物は周りからの印象に左右されることにうんざりしていて、でもその印象がプラスに働くことも分かっているから八方塞がりになっている。
そんな中で、ソーダを差し入れされて、『私の嫌いも知らないのに、適当なことしないで』と情緒が不安定になっている。自分の良いところを見てくれている人の厚意にも上手く応えられない辛さを感じる。

決めつけないで!
ポジティヴガールにも 憂いなEyes
ネガティヴなYouも 今夜はVenusな合図
ね どっちもホントでしょ
Love me? Love me? Love me? Yes?
いつまでも 論理的Lonely? No!

「決めつけないで!」とここでようやく自分が解き放たれる。
ポジティブガール⇔憂いなeyes
ネガティヴなYou⇔Venusな合図
正反対に見える事柄も、同時に並び立つ、すなわち「ね どっちもホントでしょ?」というわけである。
『私だけじゃなくて、あなたたちも心当たりあるでしょ?』と言ってくれているような気持ちになれる。
これまで周りを突き放すような態度から、このあたりから徐々に考えがまとまって柔和な雰囲気をまとい出してくる。

(曲調が変わる)
どんな仮面も かわいいじゃん
未知未知が詰まってるんだ 正体
それもAll right

鼓動のまま 騒ごうじゃん
君 君といればもっと爽快
Wow yeah

曲調が変わった瞬間から、気にしすぎていた自分からかなり肯定的な考え方に変化する。
「どんな仮面も かわいいじゃん」
人に見せるどの“顔”も自分、ポジティブに考えるのも、ネガティブに考えるのも全部自分で、その1つ1つすべてが"かわいい"から愛そうというわけである。誰も知らない側面は、一見ネガティブな要素に見えるけれども、未知の正体がまだまだあると考えると、その人の魅力はまだたくさん隠れているとポジティブに捉えることができる。そして「それもAll right」ここでも『あなたたちもそうでしょ?』と優しく問いかけられているような気持ちになる。
「鼓動のまま 騒ごうじゃん」
周りに見せてる自分と内側に抱えてる自分の違いなんて気にせずに、自分の心の在り方に正直になっていいんだと思える。

(前略)悩んでも仕方ない
(曲調戻る)So what? そうは言うが
仕方なくても 悩むのが常
脳波 読めてもなぁ

曲調が変わって、ポジティブな考えになり、「悩んでも仕方ない」とまで言っている。
しかし、曲調が戻った直後「悩むのが常」とネガティブが顔を出す。
曲の前半で外側の印象で決めつけられることに嫌気が差していた自分が、今度は「脳波 読めてもなぁ」と中身を見ても分からないことがあると、新たな悩みに直面している。

わからないっしょ?
愛してちゃんな素顔だって
愛をあげたい本音だってあるから
ね そんなもんでもいい
かも? かも? Come on, Friends

たとえ脳波が読めても他人のことなんて「わからないっしょ?」
外見も中身も全部見たと思っても、完全な理解とは程遠い。見た目も考え方も変わり続けていく。
「愛してちゃんな素顔だって 愛をあげたい本音だってあるから」
愛してほしい気持ちと愛をあげたい気持ちも両立する。愛されることが全てだと思っていた人も愛を与えることに意味を見出すことがあるとしたら、それは素敵なことだと思う。そしてその「愛をあげたい」という気持ちが周りの人に対してだけでなく、一見矛盾しているような考えを持っている自分自身を「そんなもんでもいい」と思えたらさらに素敵だろうと考える。

踊ろうよ(以下略)

「Come on,Friends」から「踊ろうよ」の行間には、自分の中の矛盾や周りの目、決めつけや思い込みのある世界から離れて、私と踊ろうという意味が隠れているように感じる。
これはフィロソフィーのダンスに通底している価値観ではないかと考える。
『ダンス・ファウンダー』という楽曲で

「ここに間違ったステップなんてないんだ 誰のものでもない方法を踊れ」

という歌詞が出てくる。誰の目も気にせず、ありのまま、鼓動の赴くまま楽しんでいい。ライブで必ず歌われるこの楽曲は、フィロソフィーのダンスのライブを象徴していると思う。
「ポジ子とネガ乃」はこれまでの楽曲になかった曲調でありながら、グループの世界観をちゃんと引き継いでいて、新たな面を見せながら、フィロソフィーのダンスの良さを生かしていると感じた。

ソーダ 好きそうか?
私のままで こんなにもサタデー
脳波 読んでみな
君のままで こんなにもサタデー

「ソーダ 好きそうか?」:外見で何が分かる?
「脳波 読んでみな」:中身を読んでも何もわからないと思うけど。
この曲の中で、登場人物がどんどん強くたくましくなっているように感じる。
「こんなにもサタデー」
この歌詞が個人的にどう解釈するかが1番謎だった。ここまで自由に考察してきたが、「サタデー」に関しては更に自由に考察してしまおうと思う。
“サタデー”と言えばと考え、ジョン・トラボルタ主演『サタデー・ナイト・フィーバー』を思い浮かべた。僕は見たことがなかったので、これを機に鑑賞した。

少し長いが、物語に出てきた人物を数人紹介したい。クラブで踊ることが好きな主人公のトニーは、ダンス大会でプエルトリコ人を差別して、優勝させなかった大会側や正当に評価しようとしない仲間たちにうんざりするシーンが出てくる。また、凝り固まった価値観を持つ両親にも嫌気が差している。
トニーが恋をする相手・ステファニーは美しい女性で、自分には教養があって、すごいアーティストと仕事をして、周りとは違うと思い込んでいる。しかしながら、その仕事に至るには男と関係を持っていたことが分かり、きれいなだけじゃないことが分かる。
トニーの友人のボビーは、仲間内から腰抜けと馬鹿にされていて、そうじゃないと認めらたくて、度胸試しで無茶をしてしまう。他にもたくさん登場人物がいるが、この3人は特に作品の中でフィーチャーされている。

何が言いたいかというと、この3人こそ“ポジ子とネガ乃”なのではないかということである。
トニーは人種差別や親の凝り固まった価値観にうんざりしている。つまり印象だけで何かを語る周りの人たちに憤りを感じている。
ステファニーは一見聡明で完璧な女性に見えて、仕事を掴むために後ろ暗いものを抱えている。
ボビーは周りから馬鹿にされるが、自分はできるやつだと思われたいと願っている。
歌詞考察の中で話したような人の目、印象とのギャップ、内面と周りからの印象の違いによる燻りといった内容がこの作品に表れているのではないか、そう思った。

映画のラストシーンではトニーは地元を離れ、新天地での生活を決意する。親や友人の声に左右されない地で踊るわけである。

話を歌詞考察に戻す。
つまり、「こんなにもサタデー」というのは何かとうるさい世間からの断絶、そしてありのままで自分の思うように生きるということの“解放感”なのだと私は考える。
「サタデー」とは、あの"ラストシーン"になぞらえたものなのではないかと解釈した。

この曲を聴けば「いい人だと思ってたのに裏切られた!」とか「こいつ実は嫌な奴で…」という声に耳を傾けなくてもいいじゃん、と言ってくれる心強い味方がこの世にいると思えてくる。もちろん犯罪とか明らかに人を傷つけるような行為はダメだけれども、自分の中の矛盾も、別の顔を全部自分として愛して良いんですよね。これに気づいた人から本当に生きやすくなると思うし、周りの人にも優しくなれると思う。

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