書籍:『中原昌也 作業日誌2004→2007』、日常に物語なんてない
年末、久しぶりに渋谷に行ったら、センター街にぽつぽつと空き店舗があって驚く。コロナ禍で人が減ったということなんだろうけど、若い人の流れが新しく駅まわりに出来たスクランブルスクエアの方へ流れている。渋谷自体、ホットスポットが移り変わる街なのだが、代名詞であるところのセンター街がこれまでにないくらい暗い気がしてショックだった。たしかに、このご時世、路面店で街歩きというのそぐわないのかも。
さて、本日は書籍。
■ 『中原昌也 作業日誌 2004→2007』
作 者 中原昌也
発行所 boid
発 行 2008年 ※ kindle版は2019年
状 態 kindleで2週間かけて読んだ
本書は、ミュージシャンで小説家の中原昌也が記した、2004年から2007年までの日記である。初出は雑誌「EYE SCREAM」での連載。「EYE SCREAM」はまだ本屋でみかける気がする。あらためて「EYE SCREAM」について調べてみると、04年に月刊誌としてスタートし、18年に隔月、19年に季刊と刊行ペースを落としつつもまだ続いている。中原の連載は創刊号だ開始したようだ。
内容はクリエイターならではの偏った生活ぶりがよく伝わってくるもので、毎日のように通う映画館では何を観たか、爆買いしたCD、DVD、本、レコードは何か、そして誰にどこの店で会ったかが詳細に記録されている。これが内容の8割。あとの1.5割が、金欠でつらい、書くのがつらい、鬱でつらいという嘆きである。
このなにが面白いのかといわれれば、答えるのがむずかしい。わたしは、著者が観たり買ったりするマニアックな映画や音楽に興味があるので、ひとまずそこで楽しめる。ただ、それを楽しめるのも、最初の三分の一ぐらいで、そこからは、買い物中毒の中年男性の繰り返される日常という感じで、さすがにダレてくる。
でもそれでも読み続けてしまった。それは不思議な「おかしみ」があるからだ。おかしいのは、買い物中毒の中年男性の実態とかではなくて、わたしたちにも関係している人生の根源なものに繋がる何かだ。
観た映画、買ったものの間にたまにこんな話がでてくる。
おばさん自身の旦那さんは、浮気のすべてが書かれた手記を見てしまい離婚したという話であった。「あの人は何でもかんでも手帳に書くから…」と言いながら、おばさんも「何時何分に高度いくつ」とか「何時何分にインチョン空港に到着」などと細かく手帳に書き込んでいた。
ここは、著者が韓国行きの飛行機で隣になり、打ち解けて到着するまで話をした女性のことを書いた箇所だ。女性は、メモ魔の夫が書き残した浮気のことを読み、離婚したけれど、女性自身もまたメモ魔だったという。なるほど、シュールといえばシュールだけど、わざわざ人に話すまでのエピソード未満という感じがする。著者の書き方も面白い話として書いてるわけでなく、さっぱりしたものだ。
ただ、淡々とした日記のなかに、突然こんな話がはいると違和感になり印象に残る。テクノミュージックを聴いていて、繰り返しのフレーズなかに、一音だけ異なる音が加わると、それが大きな変化に感じるのと似ている。本書ではこんな「おかしみ」を何度も味わう。
そして本書を読み通したあと、ああ、人生って客観的にこんな感じなんかじゃないか、と思うにいたる。われわれは自分の一生を、「私の履歴書」的にあのこととこれが繋がって繋がって今ががあるということか、同じこと繰り返されるだけの平凡な日々、というどちらかでイメージしがちだ。
でも、本当にそう思ってるとしたら、ほんとうは周りがまったく見えていないのだ。さっきで引用した箇所のように、われわれの一生にはあとあと回収もできない出来事が絶えず起こっている。それは、たまにかろうじて「あれなんだったんだろう?」と覚えてることもあるが、だいたいは後の何かに繋がってないために忘れていると思っている。しかし、むしろ日々というのはとてつもなく非連続的で、われわれは、毎日、必死に弥縫して一日のイメージをつくっているのではないか。
昨年2020年に刊行された、中原の『人生は驚きに充ちている』には、本書と同じテイストの「戒厳令の昼のフランス・ツアー日誌」が収録されている。これにも変わらぬ爆買いぶりとあらゆる嘆きが記されているのだが、いまはパートナーがいるようで、その分明るいトーンになっている。なんかとても嬉しい気分になった。
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