蘭 第8話 光と群青色
高校生になって学校が遠く離れて生活が変わっても、変わらず僕らは一緒にいた。ただどんどん自然にお互いの感覚とか相手にやりたいことがわかるようになっていくのだった。高校が始まったばかりの頃、彼女の家から嫌な怒鳴り声が聞こえてきたときには僕は窓の横で歌を歌っていた。彼女が部屋に戻った時、何かを感じて考え泣くだろうと知っているから、彼女の隣の家の窓の近くにあるベッドに腰かけて頬づえをついて、ただ蘭のために少し大きい声で口ずさむ。彼女が目に涙をためて、唇を引き結んで僕をにらみつけ、でもどうしたらいいか分からなくて片手を赤くなるまで押さえつける。そういう時、僕はルナを抱えてルナを蘭の顔に押し付けた。そうすると蘭はとてもたしかに、ルナを抱きしめることが出来たから。言葉よりよっぽど意味があった。蘭は泣く目を伏せて笑った。
僕には高校でたけるという友達ができた。よく笑って、ひとのことをよく考える、素直な太陽みたいな人。僕らは二人ともサッカー部で、同じクラスだった。部活や授業以外は基本一人で過ごす僕に、友達になりたいと直接言ってきたのがたけるだった。僕は初めてきちんと話をした時の蘭みたいだ、とぼんやり考えていてあまり話を聞いていなかった。とにかく彼は僕に興味を持ったらしかった。
「購買行ってきた!」たけるが軽やかに走って、教室のドアから入ってくる。
「しゅんにもあげる。沢山買ったんだぜ。」といって机にパンを並べていく。人懐こいのにさらっとした風を纏っている。一緒にいてとても楽だ。風でなびくカーテンの傍らで僕はそう思う。
「たけるといるの、好きだな。」ぼくがそういうと
「よせよ、照れるだろう。」といって本当に少し赤くなるから、僕は大きな声で笑った。二人でパンを広げて話していると、クラスメイトの何人かが集まって来て騒がしくなった。
「しゅんさっきなんで笑ってたんだよ、俺も混ぜろよ。」と同じサッカー部のハルが口にごはんを詰め込んだまま言う。
皆が口々に汚いだの、落ち着いて食えだのしかめ面でいい始める。たけるが笑っていた。仲のいいクラスだと思う。適度な距離感があって、いじめとかそういう類の変に密な空気もない。居心地のいい、広々とした空間。中学より輪が広がり、いろんな人間を自由に知っていける、公立高校特有の空気。
窓が開いていて風が入る。人がこれだけいるのに重たくない。笑い声が響いて、明るい光が真ん中に浮かぶようなみずみずしい空間。それは僕が一人で受けるには少しさわやかすぎると感じる、温かく伸びやかな光だった。そして何か幸福な予感を含んだ空気が僕らの間を通っていく。僕の髪を風がさらりと揺らし、蘭はこういう場所が合っているのに、と僕は痛いくらいにそう思った。彼女の明るく突拍子もない考え方、激しく断定した自分でもっと考え進むためだけに言う言葉。生き生きと、少しクレイジーな考えを言う彼女の声と話し方。自由を喜ぶときの笑顔と、明るい空気を広げる笑い声を想う。高校に入り、ますますこういうことを考えるのだった。彼女が思いつく方法はどれも彼女に合っていないことを想わずには入れないら。不器用な彼女に思いつく方法はいつも彼女にとって窮屈だったり、悲しかったりする。なぜなら僕らにはあまり出口がないから。僕らはなんとか方法を見つけて少しずつ逃げていく。さまよって進んでく。そしてひたすら考えるのを止めてはいけない。無意識に何かを持ってしまわないため、あるいは何かを失わないため。あまりにも孤独だ。
「村上くん。今日皆でカラオケ行くけど、来る?」輪の中にいた女の子が尋ねる。
「ん。行けない。」ぼくはぼんやりしたまま、静かに答えた。
「なんでだよー」ハルが大きな声で問いながら僕の顔を覗き込んでくる。
「ごはん作らなきゃだしさ。」ハルにそう言う。作らなくちゃいけないわけではなかった。でも母さんが帰ってくるのを待ってただ手伝い、話す力はまだなかった。自分ひとりで以前みたいにやっている方が楽だった。寂しい想いをさせたとか、思わなくていいのに。僕は今ちっとも寂しくない。何かが欠落しているような感覚もない。
「かーっ。しゅんと出かけたことねえよなあ。」とふてくされた様子でハルが言った。
「部活終わりに、行ったことあるだろう。」ぼくは、部活終わりに行ったファミレスを思い出しハルを見た。
「やっそういうのじゃなくて、クラスの皆でみたいの来たことねーよ?」
「しゅんは忙しーの。ハル、焼きそばパン取ったろう。払えよ。」とたけるが言う。
「えっ、うそ。しゅんにはあげてたのに。」
「しゅんはいーの。お前はダメ。調子乗るだろう。」
「えーーっ」とハルが悲しげな顔で言うもんだから、僕は笑ってしまった。
僕は夏合宿に行ったり、日々の練習に明け暮れたりして夏休みを過ごしていた。偶然バイト帰りの蘭と大きな通りのところで会って、僕らは一緒に帰った。僕らは何も話さないこともよくあって、だからこの色は沈黙のせいではなかった。群青色が泣く。だけどただ僕らはたわいもない話をしていた。黄色いキャミソールと夕日と、蘭の目の綺麗さをもってしても蘭の表情と全身を彩る群青色はあまりにも濃く在った。だから僕は、蘭の前に回ってあれから母親と話せているのかと尋ねた。蘭は疲れた顔をした。首を振っていや、と言う蘭に僕が口を開こうとすると、蘭は静かに言った。
「もう、いいんだ。あの人がやるみたいに同じ目で、叫ぶみたいにさ、それがただ嫌なんだ。同じ目つきだって、あの人いつも私に言ってた。わたしも叫んでるんだ、何かを求めて。何かを求めている時に同じやり方でしか求められないのなら、」
「求めていることが違うじゃないか。全然ちがう。それに僕らには方法がないよ。」僕が眉間にしわを寄せて問う。僕らは立ち止まって話していて、家に近づいていこうと歩き始める蘭を阻止するかのように立ちはだかっていた。やたら暑い気がして頬を腕で拭ったけど汗はかいていなかった。風は涼しく吹いていて、暑いのは世界のせいではなかった。僕が熱を熱をもっていた。蘭がどれだけ泣いたのか知っている。
「しゅんお願いだからそんなこと言うな。お母さんみたいなこと、お願いだから言わないでよ。仕方ない、なんて言葉、逃げ場がなくなる。ループから抜け出せなくなるだけなんだ。それしか方法がないから大丈夫って違うよ、違うんだよ。一緒なんだ。あの人が何度も言うんだ、お前はおれによく似てるって。言い方とか全てがそっくりだって。正しいことを言ってるつもりかって、鏡を見てみろって。」何か言いかけて、口を閉じる。億劫そうに口を開く。
「冷静になった。もしも大人になって似てしまって、同じような発言をして、同じような目つきをしてしまうとする。ああ仕方ないんです、父親がこんな風だったんです、なんてそんなの理由になんてならないじゃない。もうほんとにそれだけなんだ。だからいいかげんどうにかしないと。大人になった時の自分は百パーセント自分の責任なんだ、悲しいことにね。そして私はそれを美しいことだって思いたい。それにそんなふうに誰かのせいだと言って、自分を許すなんてこと出来ないって分かってる。そんなの反吐が出る。あの人は、私の母はこれを助けられない。そして私はそれを期待してはいけなかった。するものではない。」
そういって僕を見つめる蘭の目は透明だった。
でも、それは澄み過ぎているような気がした。ねえ、だから蘭はちゃんと話したかった、受け止めて進みたかったんじゃないの。声で、言葉で受け止めたかった。そうやってちゃんと進みたいと、傷付けず恨まず「いいよ。じゃあこうしてみる、こうなりたい。」と言いたかった。ただケンカをして仲直りするみたいに笑って、それで進みたかったんじゃないか。
「最近、黙って無になって何も頭に入れないんだ。前まではそうしていたら、反発していなければ、自分もあの人の考えに賛成しているみたいな気分になってさ。あらがわないと、言葉たちが自分の中に入ってくる感じがすごくしてたんだ。お母さんを助けたいという気持ちでいっぱいだったし。自由でいてほしい、と想ってたりね。自分ももっとあそこでさ、私が私であって、涼しく心地よく在りたいとも思っていたし。あったんだ、理想みたいなもの。でも自分だけだったんだろうな、きっと。そんなことお母さんは望んでいなかったし、だれも望んでいないのに。いくらおかしくても、ああいうふうに私がいても、物事は変わらないんだ。ずっと声を出してた。止めなかった。でもそんなのまったく望まれてない。砂漠にひたすら水をたらし続けてるみたいだ。私の綺麗でつややかな瓶は空になる。そして干からびていく、代わりに何を持つこともなく。そしてその瓶があることも、その水が空になっていっていることも誰も気がつかない。あの人たちからしたら存在すらしてないんだ。だからもちろん見ることができない。」と言って眉間に微かにしわを寄せた。気だるげに時に身を任せる。時間をかけ、言葉が出てくるのを待つように目をつむった。
「蘭の“何か”はただ望まれていないから、在っていいものじゃないから、」だから君は手放すの?鱗どころじゃないそれを落として、行くのか。
「そう。これは必要ではない。そう気がつく、するともう何も入ってこない。無になる。だから、楽なんだ。」といって僕を見る、その顔はほんの少し笑ったように見えた。でも僕はそれを見て、何かの光が少し弱くなったような感覚を覚えた。彼女の中の何かが消えていくような気がした。僕は肩をすっと落として、透明な触れられないようなものが彼女をぐるりと覆い、その中で砂がさらさらと流れている様子を見た。僕らにはその瓶も、砂も、水も見える。すべてを吸収し、それでもすべてを帰に返す、僕らの足を覆う砂漠が見えているのに。
もしそのたどりついた解が正しいとしても、期待すること、求める事、共に変わることを望むのが間違っていると、それはあってはいけないとしても、蘭がこんなふうに透明になっていくのは必要なんだろうか。それはあるべき姿なんだろうか。僕らが真っすぐすぎて感じすぎてしまうとして、それはいけないことだとでも言うのだろうか。声をあげてはいけないとでもいうの。僕らはこの透明さがまた彩られていくのを見ることが出来んの。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?