見出し画像

蘭 第5話 不器用さと光 

 セミは激しく歌い鳴き、グラスには氷をたっぷり入れて麦茶を飲んだ。「外」とか「太陽」という言葉の響きだけで肌はじりりと音を鳴らし暑さを覚えた。ぼくらは受験生で、よく図書館へ行った。

「図書館行く?」床に散らかるものを足でどかしながら、蘭に電話越しに尋ねる。
「一目ぼれしちゃった。」あけすけな声が言う。
「おめでとう。」ぼくは机の上に広がった本を片していた手をとめて、少し驚きつつもあきれてそう言った。
「うん。図書館行こう。」と蘭が言った。スピーカーにしているらしく、ばたばたと準備する音が聞こえた。
「うん。」僕は言い、電話を切ってポケットにしまう。リュックに本を読むために机の端にどけてた参考書を詰め込んで、階段を降りる。足がペタペタと床を鳴らしすから、夏だ、と思った。柴犬のルナが足に飛びついてくるから、笑って頭をなでながら玄関へ向かった。ドアを開けようかためらうくらい熱気が伝わってくるけど、ガチャっと音をたてて片目をつむりドアを開ける。蘭が白い大きなTシャツとサンダルを履いて立っている。僕は光に目をならすまで目を閉じ、まっててと声をかけ自転車を取りにドアの横の奥に進んだとこにあるスペースへと向かう。
 
 自転車は乗ったら漕ぐだけで、風を感じとてもシンプルで好きだ。僕は何も考えずに漕いで進んでいくタイプだけど、彼女はすごくゆっくり漕いで、空とか木とか道路とか、わけわからないくらいよそ見しながら進むから、それに合わせて漕いでいく。やたらセミの鳴く音が耳に入って暑くてたまらなかった。日差しは強く激しくて、じりじりと音が鳴るようで、陽炎がぼんやりと湿ったような道路の上に揺れている。どくどくと体が波打って、じんわり汗が流れていく。振り返ると蘭はゆっくり池を見ては、僕らを覆う木を見上げて気持ちよさそうにしていた。暑くないのか?と思うけど、彼女の成長している途中の生き物みたいなそのやり方は邪魔しない方がいいと思うから、僕は今日もそれを見てゆっくりと進む。そして気がついたらくすくすと笑っている。畑をこえて道なりに進み、蘭の通う中学校を通り過ぎ坂を下っていく。ランが「ひゃっほー」と叫んで足を離し、音を鳴らしてスピードに乗って進みTシャツを発光させると、たちまちそれは風で揺らめく。シャーと音を鳴らす自転車と蘭の後ろ姿から感じる生命力のようなものは僕を、なんだかうんと幼く心地よいものになったように感じさせる。
 
「あはは。次坂上るぞ。」ぼくは大きな声で笑って言った。
「うーん。そうなんだよ。下ってってつけばいいのにさー」
「そしたら帰りが大変なんだよ。」
「違う道から帰るゆっくり。」

 ぼくは笑って彼女を抜かそうとペダルを回す。思いきり坂を上っていく。ぼくらの上には背の高い大きな木がいくつも並び長い影をつくり、じんわりとした熱気の中で涼しさと心地よさを感じさせる。足をペダルに押し付けるとぐんと力がかかってペダルが勢いよく回る。喜んでいるみたいに心地よく音を鳴らしている。彼女がニヤッと笑ってすぐに追ってくるのが分かった。こういう時いつも競争しようとする。坂の上について池のある場所を過ぎると、僕らは図書館の前のスペースに自転車を止めた。
図書館に入ると、彼女が僕を抜かしてペタペタとサンダルの音を鳴らして進んでいった。僕はポケットに手を突っ込んだまま上を向いて、しばらく体に冷気を取り込むかのように立っていた。彼女が振り返り、僕を見てからふっと前に向き直り本棚へと消えていくのが視界に入った。ぼくは座れるところを探してリュックサックをどさっと置いた。ペンとノートを広げ参考書を開く。
 
 一時間くらい経った頃だろうか、彼女が僕の隣に座って本を広げるのが横目で分かった。彼女は本当に本が好きで、ぼくはいつもじっと見てしまう。彼女が僕に真剣な話をする時と同じような表情で読むからつい見てしまう。蘭がちらっと僕を見て、
「塾の人がびっくりするくらいタイプだったんだよ。」と言う。
「あ、塾で。どんな人なの?蘭はどこに惹かれたんだろう。」ぼくは少し驚いて尋ねる。
「顔だ。」
「初めて聞くね。芸能人とか見ても、かっこいいとか言ったことないじゃん。」でも一目惚れというのは、タイプを聞かれてクエスチョンマークを顔全体に浮かべる蘭らしいことな気がした。
「うん。わ、かっこいい。あんな人がいるの?って感じだった。」
「ちょっと気になるな。」ぼくの驚いた姿を見て
「横にいた友達が、え?まあそうなのかなあ。ってボケッとしてた。」とその様子を思い出したのか顔をしかめて言うから、夕という人が言ったのかな、と思っていたら
「夕がそういったの。そう思わなかったんだろうねえ。」と言った。夕という人は気分屋で一匹狼というタイプで、蘭から話を聞くとき僕はいつも声を立てて笑った。
「しゅんはどんな人がいたら一目惚れするんだ?」
「分からない。あんまりしゃべらなくても、雰囲気が合う人ってぱっと見て分かる気がするけど。」
「あーそんな感じだね、たしかに。いるよ、どこかに。楽しみだね。」といって、蘭は真顔で僕を見てから本に戻っていく。僕は思わず笑いそうになるので、シャーペンの芯を軽く自分の手に刺した。僕らは熱心に本を読み、勉強して、ぼーっとしてしゃべって、初めての受験勉強にそうやって日々向き合っていた。
 
 夏のゆっくりと落ちていく日もすっかり落っこちてしまって、夜が全てをうめつくす。すると僕らは少し机に突っ伏す。人のいない図書館の空気を満喫したいから。そうするとここは僕らの王国みたいになる。素足に風が当たって、机はひんやりしていて気持ちがいい。誰もいないから時計の音が大きく鳴る。腕に顔をうずめて一つ深く呼吸をしてなにかを感じる。その時間になると、その誰もいない図書館で彼女はいつも歌を歌い始める。僕ら二人ともこの瞬間をいつもとても楽しんでいる。夜は特別なものを僕らに与えると思う。彼女の歌も静まって、時計の音がコツコツと音を鳴らした。しばらくそれを聞いて息をつく。そろそろ行こうかなと思い立ち上がる、そのタイミングが蘭とほぼ同じだ。ゆっくりでも、早くでもなく、タッタッとサンダルをならし歩いていく。暗い夜空を背に、それを縁取るかのように囲う大きな窓がぼくらを囲っている。その窓の前でぼんやりと光を照らしているカウンター。ありがとうございましたーと口をそろえていい、ドアを開け暗やみへ包まれていく。

 自転車にまたがってしばらくして、行きとは正反対の急こう配を上る。さっきまでは池に映る景色にニヤニヤしていた蘭の顔が険しくなっているからくすくすと笑う。二人で坂に文句を言いながら登ると商店街に出て、そこには中華料理屋や居酒屋、窓の大きなパン屋に、和菓子屋が並んで立っている。路地裏に入ると、そこにはいくつかのレストランがある。中華料理屋の前では提灯が揺れていて、あたりの店も鈍く照らし、あたたかな雰囲気を醸し出している。僕らはそこをすいすい漕ぎながら帰っていく。そういう時しゃべらないことも割とあって、沈黙の中ぼーっと各々過ごしていることも多いけど、今日の彼女はいつもより表情がシュッとしているように見えて、僕は嫌な悲しい予感を覚えた。自転車の音を立てながら春になるととてもきれいに桜が咲く、大きな桜の木のある家のとこを曲がり、自転車を滑らしていく。蘭はその木を今日は見上げていないことに気づいているのだろうか。畑を曲がって僕らの家が見えて、蘭は慣れた手つきで自転車を止める。そしてそのまま家に入っていこうとするから、

「高校どうするの。」大きな声で蘭の背中に問う。
「急ね」
「だって蘭だって都立じゃん。」
「あー覚えてるかな、中学一年の終わりくらいか。一回何かで見つけて、こんな学校あるんだ。っていってた学校あったじゃん。」
「ああ、不思議な学校だって言って興味持ってたよね。でも頭いいやって言ってたね。」記憶を探る。
「そう。あそこにしようと思って。私立第一なのに、単願じゃなくて一般で受けるんだけど。」と言う。
「私立ダメだよね?」
「そうそう。」笑いながらそう言った。
「なんで急に。」足元に転がる石を見つけた。それに夢中になっているようなそぶりをした。蘭が一瞬フンっと嫌な顔をしたのが気配で分かる。多分もう、少しも考えたくはないんだろう。嫌というほど考えたのだろう。決心したからといって、すべてが落ち着いて収まっているわけじゃない。だけど少しして僕の方を向いて言った。
「腹がたつからだよ。だけど自分のこと一つでも投げやりになってくのは違うなって、違うんだよなって、なんとなくただ最近そう思ってんの。」眉を少し寄せてポケットのうしろに手を突っ込んでいった。
「どうせなら出来ることは、やりたいことは何の気がねもなく全部やってやるしかないんだ。お金は払ってるだろ、ということだから気にしないみたいじゃん?そこは」笑ってそう言った。僕は何か言おうとしてためらう。そんな僕をみて蘭は続ける。
「だからその通りにしよう。そんで黙ってはばたいて出てくの。なんだって好きなことはできるようになって」言い聞かせるように、憤りと不安の混ざったような顔で言った
「それは。そう、私立のお嬢さんになるのか。」それはでも、蘭にあっているかな、ただ僕は自由の少ないそういう場所に進むことで蘭がまた息苦しさを感じるんじゃないかと思った。少しやけくそになっているような気がした。逃げ場が少なければ、焦って何かを決める。そんなことを考えていて、ぼくはなんだか僕の声かもわからない声で妙なことを言った。
「ほんとやめろよ。吐き気するそれ。私立のお嬢さん?」しゃんとした声がはっきりと言葉をとばす。僕はその通りだと思い苦笑した。蘭は本当に不快そうな顔をして地面に向かって、ぺっと何かを吐き出すようにしている。僕は思わず吹き出して、笑って「ああ、よかったな。」ととても気持ち良く言った。言った後、ああこれで良かったんだとすぐに分かった。少し悲しさとまぶしさと得たいのしれないものを感じて戸惑っていたけど、でも今それはどうしようもない。ただ進んでいく。
「うん。おもっきし高い私立行ってやる。」強い目で僕を見ていひひと蘭が笑う。

ぼくは微笑んで、蘭は変わらずいひひと訳の分からない蘭だけの笑い方で笑っていた。そして僕らはバイバイと手を振って分かれた。蘭が背を向け家に入っていくのを見てから、僕は明かりの付く玄関のドアを開け家に帰った。
 
 家に入ると、母さんの靴があった。ごはん作ってくれているんだろうなと匂いで分かる、いくつものおかずのにおいがする。リビングには案の定母さんはいて、だけどなぜだかやたらおしゃれな恰好をしていた。僕は嫌な予感を覚え、表情が硬くなる。
「どこかいってたの。」ぼくは聞く。小さく、堅い声がどこからかこだまするように聞こえる。
「ああ、うん。ちょっと用事があったのよ。」
「そう、荷物おいてくる。」目を逸らしてそう言った。
「うん、おつかれ。」母さんのさらっとした声が僕の背中に声をかけた。リビングのドアを閉めたら、床にしゃがみこんでふうと深く息を吐いて僕は一人になった。何の用事なんだろう、あいつに関係していることなんじゃないかと思い、勘ぐっている自分に気がつきイラついて舌打ちをした。でも母さんのさらっとした声が頭をよぎり、それは僕のその考えを否定した。それに母さんがいいなら、好きで決めることは驚かないで受け入れられる。そうすると決めてたのにと思い頭を何度か振った。そう決めてきたはずなのだ。頭を空にして、膝を叩きリュックを持ち上げゆらりと立ち上がった。蘭のいひひという笑い声を思い出して、笑いながら二階への階段を上っていく。階段の途中の閉まっていた窓を開けると、気持ちのいい風がはいってきた。秋を恋しく思う。その時、大きな声ではないのに不穏な空気を孕んだ声が隣の家から聞こえたような気がした。僕の顔は曇り、風はただの体にあたる何かとなる。空を仰ぎ見ると紫みたいな色が広がっていた。僕らの世界は狭いな、どうしようもないな、と馬鹿みたいに広いはずの空を見て思った。心がつうっと痛んだ。いつの間にかルナが隣にきていて、僕を見つめて一声吠えた。
 
 
 着替えをすまして下へ降りると、母さんがごはんを並べているところで、僕は手を洗って手伝った。ごはんを盛って、残りをタッパーに詰めてまだ並べていないお箸やお茶を用意して並べていた。単純な動作。その時母さんがふっと笑った気がした。
「きっとしゅんはもてるね。」最近母さんは僕が家のことをしている姿を見るたびにそういうことを言う。僕はまたかと思う。
「全然もてていないけどな。」と何か振り払うように後ろを向き笑った。母さんは驚いて、
「見る目がないのよ、まだ。高校生になったら気がつく人がいるだろうな。」と楽しそうな声で言う。僕はなんて言ったらいいのかよく分からなくなる。最近以前より母さんが家にいることが増えて、早く帰って僕とご飯を食べようとしたり、作ったりしてるみたいだった。でも僕は別に平気だった。罪の意識なんて今更感じる必要なんて少しもないし、母さんが自分勝手だったとも思わない。その突然の試みは、これまで一人でやってきた僕のリズムを狂わした。おかしいかな。なんだか何も分からなくなってしまうような気がしてくるのだ。なんだか前の僕に戻ったみたいにうんざりした気持ちになってしまう。気がついたら僕は「まあ、世界は広いからね。」と何かを振り払うように腕をくんでにっこり笑って言っていた。言った後、蘭みたいだなと思った。よくわからず、なんとなく言葉をはくのは嫌なのに、この言葉は合っていた気がして可笑しかった。母さんは驚いたような顔を一瞬して、時々僕に微笑む時の少し寂しそうな笑い顔で
「そうね。」といった。

カーテンが風で大きく揺れ、気持ちのいい風が入っていた。机の上の電気がぼんやりとごはんを黄色く照らし、それのせいで頭が重たくなっていくような感覚を覚える。それを振り払ってしまいたくて、僕は座ってごはんをかきこんだ。食べ始めると、僕はとてもおなかがすいていたことに気が付く。なんだか妙に食欲がない気がしていたのにも関わらず。自分の感覚に、感情に、鈍感に、なげやりになっていっているみたいな自分を自覚し、この感覚を取り戻したくないと願っている自分に気がついた。いらない。ぼうっとする光の中でそう思った。口に出していたんだろうか。今蘭は何をしているんだろう。激しい目をしながら泣いているのだろうか。なんだその目は、なんて言われて。僕は息をついて、夜風で揺れるカーテンをぼんやりと見ていた。



いいなと思ったら応援しよう!