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蘭 第13話・最終話 歌声

 咲き始めの桜が匂いをふっと放って、白く透けるように空気に溶けていった。それは僕の鼻をくすぐる。涼しげで、少し懐かしいその匂いは風がふくと揺れて僕の前を通り過ぎた。蘭は昨日卒業式で、僕はそれを明日に控えている。そして卒業式が終わったら、僕らはそれぞれの場所に進む。僕の荷物はもう用意してあって、窓脇のあのベッドの足元に置いてある。だから僕らの一番のお祝いの日であるそれの真ん中の日の今日、屋根に上って互いのためにお祝いをしようとしている。それをしようと話したのは先週だっただろうか。

 
 蘭はとても明るく、はじけていてかわいかった。感情と感覚に素直でただ思うままに蘭でいる。蘭は3年間バイトして貯めたお金の中から下ろしてきて、少し贅沢なキャロットケーキを買った。僕はそこにろうそくを乗せた。蘭はそれをとても幸せそうに見ながら食べ、饒舌に話し、ケラケラと笑った。風はとても心地よく吹いていて、僕らの好きなあのいくつもの夜と同じだった。だけどその時、蘭は目をつむって歌い始めた。最初はゆっくりとなめらかに、そして高らかに。どこか叫び泣くようにも聞こえた。何もない、ここはただ夜空の下というだけなんだと思う、どこまでも自由だ。僕らは今遠い国の森の中の川辺にいるのか、あるいは誰も知らない産まれたばかりの未知の生き物なのかと思うくらい自由で不思議な力をもつ声で。笑いながら、時に眉を寄せて歌った。のびやかで空に届くくらい広く高い、それがあまりに幸福に満ちているから、僕は頭を空にむけて吠えるように笑った。蘭が息をついて振り返り、笑って僕を見る。

心地よく、風が僕らがここにいるのを喜ぶみたいに何度もふいた。
「いろんなことが起こった。素敵な人たちがあらわれた。」蘭は胡坐をかいてそれをくすぐったそうに全身で受けている。
「うん。光っててあったかくて、明るい」蘭にはわかる。僕が何を見ているか、感じてるか。
「うん。」
キャロットケーキの上のクリームチーズには溶けたロウの味がした。甘くて、ピリリとする。

 ぼくらは顔を見合わせた。そしてどちらからともなく吹き出す。子供みたいに笑ってしまう、その辺の家の人たちと道を歩く人たちのこの夜分の幸福と笑顔をかき集めてしまったみたいに。それくらいいいと思う。むしろ喜んでくれるんじゃないだろうか。
 蘭は寝っ転がっていて、月と星はちょっとまぶしすぎるくらい辺りを照らしているような気がした。この屋根の上で気のすむまで転げまわって笑い続けるこの時間を惜しんでいるのは、僕らを見守っていたこの星たちの方な気がした。蘭が起き上がろうとして、僕はその時寝転がろうとした。そのすれ違う瞬間、笑う蘭はすぐ目の前にいて、とても近かった。
蘭の栗色の髪が揺れる。

彼女にキスをした。軽くて重くてじゅっと音がした気がした。まるでマッチの火に水をかけて消した時みたいな音。僕らは互いの目を見つめる。
 
「バイ」ぼくはまっすぐな声で言った。
 
 彼女の少し長いくるりとした髪がゆっくりと風でなびいて、新しい匂いが彼女からする。みずみずしい空気は僕らを包み、ぱっとはじけるような少し甘い、黄色い大きな一輪の花のような匂いが、風とくるりと舞う。
 
 

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