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物語り 愛と涙と星のきらめき 12

 「これよ。お父さんに買ってもらったの」
 Kがバックから取り出したのは、肌身離さず持ち歩いているという星座にまつわる神話を挿入した星の図鑑だった。
 栞を挟んだページを開き、「私はエウロペじゃ無い。でもエウロペなの」と矛盾したひと言を呟いたのち、Kは私にアルデバランの神話を読んで聞かせた。

   ♡     ♡     ♡

 フィニキアの王女、エウロペを見そめたオリンポスの主神ゼウスは、白い牡牛に変身して、野原で花摘みに興じるエウロペに近づき、自分の宮殿のあるクレタ島へ連れ去りました。恐怖と悲しみに明け暮れていたエウロペはやがてゼウスの寵愛を受け入れて、三人の王子を産みその後幸せに暮らしました——


 自分は「エウロペ」じゃないけど「エウロペ」………
 矛盾した表現の意味を考えているうちKは物語りを語り終えていた。
 エウロペの恐怖と悲しみは、同時にK自身が直面した悲惨な経験である事に間違いない。
 
 受け入れ難い自身の状況をエウロペに投影することによって、心の安定を保つ必要に迫られ、その結果生じた防衛機制だと思われる。
 Kの想いを考える側面から神話の結末に注目すれば、悲劇の先に幸福が約束されているという“希望“そのものであって、アルデバランの神話はKがのぞむ幸せへの隠れ家だったのである。


 カウセリングの間、Kは私の頭越しの空間にもの思わしげな視線を投げかけながら,微かな瞬きで呼応するように聞いていた。

 治療者がすでに推測出来ている場合でも、患者自身の自発的な告白が治療上重要な意味合いを持ってくる。
 私は、K自身が進んで自分の現実を承認し告白することを期待していた。
 と……突然Kが泣きながら叫んだ。

 「あいつは——私ばかりでなく、大好きな伯父さんや伯母さんの人格までも汚してしまったのよ!」

 生々しい記憶とともに重たい、秘密の扉が音を立てて開いた瞬間だった。

 「先生はわかっていた?」
 荒々しい呼気の下から喘ぐように質問してくるK。
 私はあえて否定も肯定もしなかった。

 「貴女だけにしか解らない“深い秘密“ですから……心が自由になるように、ほんの少しお手伝いをさせてもらっただけ」
 精神科医が提供できるのは患者に対する助力にすぎない。

 「頭上の明かりを灯すのはあくまで貴女自身なのよ」

 「私、そのスイッチに手が届くかしら…手伝ってもらえる?」

 「肩車くらいならオッケイよ」
 Kは、小柄な私の肩車では心許ないから、それだけは遠慮しておくと言って笑った。


 それにしても……被害者にとって憎悪の対象になりかねない、加害者の身内であるおじ夫婦への配慮は,どういうことなのだろう。
 従兄弟は、彼の両親の品格までおとしめ、汚してしまったのだと言う告白は……
 従兄弟とおじ夫婦の間で葛藤して苦しむのではなく、むしろKの心理的負担を軽減していた防衛の裏付けになっていたと思われる。それは,感情を抑圧することなく真実を語ることを容易にして告白へと導いたのではないだろうか。

 アルデバランの重力から解き放たれた今、神話の世界と現実の世界を隔てる壁は取り払われた。しかし安心も一瞬、時間の歪みが心に訪れる前に素早くカウンセリングを進める必要があると思われる。

 「今、貴女に必要なのは同年代のお友達ではないかしら」
 母親の仕事環境が整うまでの間、Kに“白百合“への入所を打診したところ思わぬ反応が返ってきた。
 緩んでいた目縁には力が走り、瞳には長い間同世代から孤立してきた青春への、抗い難い羨望と渇望の色が溢れていた。


   ♡      ♡      ♡


 そして——加奈は戻ってきた。

 未だ充分残っていた健康の欠片を、ひとつひとつ拾い集めながら……

 閉じかけた幕は引き上げられ、ふたたび舞台の上に立つ少女。
 舞台の袖にはやさしい母と力強い姉、そして良き理解者メイ先生。舞台の下では白百合の友人たち。
 みんなが見守り声援を送っている。

 “ミス白百合“と“ミス髙木学園“で、かみ合わなかったこの私にだって貢献できる用意がある。

 癒されない傷を抱えつつ、不安いっぱいの未来に果敢に立ち向かう加奈の心の世界はどんな広がりを見せてくれるのだろう。


    ♡      ♡      ♡


 終業のチャイムが鳴ると、校舎からはき出される大勢の生徒に混ざって、赤茶色と縮毛の女生徒二人が溌剌とした表情で出てきた。

  きょうは帰り、急がなくていいの?

  うん、お母さん仕事休みなの だからバトンタッチなし

  夜勤専門のナースって大変でしょ?

  慣れるとむしろ都合がいいみたい うちの様な場合特にね

  加奈ちゃんはどんな調子? 絵画教室通い始めたんですってね

  びっくりするくらい色彩感覚がいいの 意外な才能発揮してるわ
  ところで 美波も帰り急がなくて良いの?

  うん、木曜日は休講なの あっ,塾とは違うのよ 実は……

  知ってたわよ だって カバンからソルフェージュの本 チラ見えしてたもの
  音大受験するんだね 目標が定まってていいな

  梨花は?

  わたし 母を見てナースになろうと思ったけど
  メイ先生と知り合ってから 臨床心理士になりたいなって

  そうかあ 絶対向いてるかも 

  どんなに苦しい状況の中でも 道標を見つける事って出来るものなのね

  求めていれさえすればね

  ねえ、美波 きょうはお互いフリーって事だから 寄り道して帰らない?

  わかった! 小町団子食べに行くってこと? もちろん大賛成!

  気が合うね 私たち

  だって ”共謀者“   だもの !

               ー 了 ー


 ☆お読みくださり有難うございました。
  短くまとめる予定がまたしても倍近く…
  次回からはエッセイに回帰しようと思います。
  転勤の地、思い出の奈良に特化して。
  ぜひお読みください。


 参考文献
  河合隼雄著 ユング心理学入門  培風館
 参考箇所
  心理療法の過程を 「告白」・「解明」・「教育」・「変容」の4項目に
  区分して考察を加えたユングの治療観
















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