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ピンクになりたい 4歳

また過去の話です。
記憶力がいい方なので、結構前のことまで
鮮明に覚えてたりします。

結構長いので暇な時にでもお読みください

4歳

さて、幼いとき私はどんな子どもだったか。

それを語るには私の家族構成を、お教えする必要がある。実は、私は双子の片割れで、顔のよく似た姉がいる。姉と言っても、同い年なのでそこまで意識したことはないが、戸籍上私が妹でもう1人が姉だ。
その二つ下に顔のあまり似ていない妹がいて、
他には両親に、祖父母、父方の叔母と同居し、女ばかりの大家族だ。

そんな私の1番古い記憶は、双子の姉を故意に骨折させてしまったという出来事だ。確か4歳のもう少しで、保育園の年長さんになると言った頃だった。私は双子の姉を今も昔もなっちゃんと呼んでいる(ここから先はこの双子の姉をなっちゃんと表記する)。今考えると、少し異常だったかもしれないが、私はなっちゃんを姉妹として認識していなかった。もう1人の私のような、私によく似た友達のような、自分の一部として認識していた。
自分と顔も、体型も、背格好も、声も、母の趣味で服装も(色違いもあったが)ほぼ一緒だったので仕方がないとは思うが、とにかく姉妹、兄弟とはまた別の特別な関係だ。下の妹には申し訳ないが。

なっちゃんとは保育園でもずっと一緒にいた。そこに、面倒見のよく明るい、同年代の子どもと比べてかなり小さかった女の子のれいちゃん、色白で目が大きく、お人形のような見た目をした、れいちゃんほどではないが小柄なえりちゃんの2人が加わり、主にこの4人で遊んでいた。

私が生まれ育った田舎町は、男の子よりも女の子が多く生まれる傾向があり、保育園内でも女の子と男の子の割合が、8:2になるくらいには女の子が多かった。

そんな理由から、男の子用のいわゆるブロックや恐竜のおもちゃ、ミニカーなんかよりも、可愛らしい着せ替え人形に、当時流行っていたアイロンビーズ、本格的なおままごとセットなどの女の子向けのおもちゃの方が多かったようだ。

それらを使い、4人で家族ごっこやお人形遊び、プリキュアごっこなどのごっこ遊びに興じていた。
4歳の女児の遊びなんかほぼごっこ遊びだ。
保育園でもそうだが、私たち双子は家でもごっこ遊びをずっとしていた。

大人の真似事が楽しくて、両親が毎晩してくれたように、絵本を読みきかせあったり、保育園の先生を真似て、手帳に何やら書き込んでみたり、スーパーのレジ打ちをしたりと、毎日飽きずに永遠と遊んでいた。字の読み書きや、言葉の理解もままならなかったため、でたらめな日本語だと思うが。私の周りの大人たちが、あくせく働いたり、自分たちに世話を焼いているのに憧れを持っていんだと思う。

さて、少し話が変わる。4歳になると周りに、習い事をはじめ出す子がちらほら出てくる。お母さんが教育熱心であれば、英会話やお習字、女の子が多い地域だったのでピアノを習う子も少なくはなかった。私たちはというと、スイミングスクールに通い出した。
というのも、私は体が弱く小児生喘息を患っていたため、少しでも丈夫な子になるようにという母の考えからスイミングを選択したのだという。ピアノを習っていた子が綺麗なドレスを着て、発表会に出ていることを知っていたため、最初のうちこそダダをこねていたが、次第に嬉々として通うようになっていたそうだ。

幼い子は水を怖がることがあるようだ。しかし私は水に入ることが好きだった。お風呂とは違う温度で、大きくて足が届かないプールではあったが、力を抜いて水に浮かんだり、水に潜ることにどこか安心感を持っていたことを、少しだけ覚えている。できる限り水の中にいたかった。それはなっちゃんも同じだったようで、それも相まって、スイミングスクールが大好きだった。

スイミングスクールに通い出した、4歳児の双子が家でやることはただ一つだ。水泳ごっこ。
お風呂に2人でゴーグルをつけてもぐったり、広い畳ばりの座敷で泳ぐ真似をしたり、普段の遊びにレパートリーが加わった。それがいけなかった。

子どもというのは、禁止されているとやりたくなるものである。スイミングスクールで禁止されていたことは、プールサイドを走ること、スイムキャップやゴーグルをつけないこと、そしてプールに飛び込むことだった。小心者だった私は、先生に怒られるのが嫌で、決してルールは破らなかった。でも唯一やってみたかったことがある。プールに飛び込むことだ。

どこで知ったのかはわからないが、大人やお兄さんお姉さんが、プールに飛び込んで泳いでいることを知っていた。禁止されているのに、なんでだろうと疑問に思った。でも大人がやっていることなら、私たちもやっていいはず。私は飛び込みを、ごっこ遊びに加えることにした。

ある夜。晩ごはんを食べ終わり、2人して水泳ごっこで遊んでいた。そのとき私は先生役だった。追いかけっこを、取り入れながらどちらともなくソファの上によじ登る。
当時怒られていたが、双子はソファで遊ぶことにもハマっていた。トランポリンのように跳ね、高くジャンプできるからだ。家族が集まるリビングは広く、大きなソファが3つも、コの字型に並べられていたため、追いかけっこをするには楽しすぎる環境だった。

ソファで遊んでいてふと私は気づいた。肘掛けの部分が飛び込み台に似ていると。
幼児向けの教室では、飛び込み台は使わなかったが、その台は水中に飛び込むためのものだと理解していた。ここから飛び込みごっこができる!そう思い立った。

先生役だった私はなっちゃんに言った。
「これから、ここで飛び込みの練習をしてもらいます!最初は先生がお手本を見せますからね!」

そう言って私は、肘掛けの上から飛び降りた。
4歳の身長に対して、少々高かったが転ぶこともなく着地した。思ったより楽しく、なっちゃんにもやってもらおうと笑顔で振り返る。

なっちゃんの顔は恐怖で強張っていた。
私は楽しかったのに、なんでなっちゃんは楽しくなさそうなんだろう。私と同じなのに。

飛ぶように促すが、なっちゃんは怖がって飛ぼうとしない。痺れを切らした私は言った

「なぜ飛ばないのですか?後ろの人が待っています!さあ飛びましょう!!」

私はなっちゃんを肘掛けから突き落とした。
咄嗟のことで、すぐ対処できなかったのか、なっちゃんは着地がうまくできず。変な位置に足をついてしまった。
それに気づかない私は、さあもう一回飛びますよ!と、転んだなっちゃんを立ち上がらせようとした。

その途端なっちゃんは泣き叫んだ。

声を聞いた母が慌ててかけつけ、悲鳴をあげた。なっちゃんは泣いているが、動けないようだった。痛い、痛いと泣き叫んでいる。

何が痛いんだろう、私は痛くないのに、私は楽しかったのに。なんで私は怒られてるんだろう。

そこからのことはよく覚えていない、朝になるとなっちゃんはお母さんに抱き抱えられていた。右足に大きくて硬い白い包帯を巻いて。
なっちゃんは『こっせつ』したのだと言う。
足の『ほね』が折れてしまったのだという。

しばらくなっちゃんがは保育園を休んだ。
その間のことも覚えていない。自分も休んだのか、きちんと通ったのか。
保育園に来られるようになると、なっちゃんは友達に囲まれていた。
「これなあに?どうしたの?」
「痛い?大丈夫?」
歩けないなっちゃんは、けんけんして移動するか、抱き抱えられて移動していた。お外遊びもしなかった。でも周りの友達が気づかってか、なっちゃんと一緒に遊んだ。普段遊ばない子もなっちゃんと遊んだ。

いいな、私もあの白いのつけたいな。なんかチヤホヤされていいな。なんで私には白いのついてないんだろう。なんでなっちゃんが遊んでる子は私とは遊ばないんだろう。口にはしなかったがそんな身勝手なことを考えていた、そして気づいた。


あ、私となっちゃんて違う子なんだ。

それが1番古い記憶だ。

今でも私はプールに飛び込めない。







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