#勇気の芸術 14 『変化と勇気。それとたまに"ほんの少しの勇気"』
オリンピックはイイ。
自分の限界を超えた人たち同士が、
一瞬を懸けて試し合ってるのがイイ。
疲れていても、観ようとしていなくても
勝手に熱くしてくれる。
素直に楽しみたいから
"のど元過ぎれば熱さを忘れる"にならないように、
これまでのことをまとめておこうと思ったら
こんな記事が飛び込んできた。
旧いことわざすら、時代適合不全を起こして
堂々と、
人の行く手を阻んでいるのかもしれない
勇気の芸術#13
『僕は不安と不満、どちらを選んできたのか』
の続き
いろいろと不満はあったとしても「このまま」でいることの方が楽で、僕らは安心なんだと思う。
これは人生の大きな節目に「変わる」ということではなく、日常においてだ。
日常で安心を求め続けることを、この国ではずっと正当化してきた。
この国の、今の雰囲気の根底にはそれがある。
目の前のことを問う力
なんて、教わってきてないし。
今までの自分から脱して変わろうとするときには怖れが付きまとう。もしかしたら、付きまとうのは恥ずかしさかもしれない。
自分の「知覚」に気づいて、
ほんとに対峙しなきゃいけないコトに気づいたときには、もう僕は後戻りはできない。
知ってしまうと、見てきたコトの景色が変わる、同じことを繰り返そうとすると自分に嘘を付くしかない。
自分に嘘を付くのはキライ。
自分で気付いたあとに、変化と怖れに立ち向かって進んで行く。
そこで試されるのが、ただの"ほんの少しの勇気"なんじゃないかな。
僕が変わらないことで付きまとう不満と、
変わろうとすることで生まれる不安。
向かうための、ほんの少しの『勇気』。
これは内面的なコトだけじゃなく、その時代折々の雰囲気にも大きく影響を受けてる。
なじみ過ぎた封建社会では旧いルールがひろがり、新しいモノは抑えつけられ、自分が変化をしようとするとぶっ殺される。
安定ムードによりかかって動こうとしない時代。
本当のことを言うのもダメ。
反対に、世の中が新鮮で動きのある時代には、新しさこそが輝かしい魅力として自然に受け入れられ、若さこそが希望になる。
ちょっとズルいけど。
そうしないと進めないんだと、みんなが気づき始める。
今はそのちょうど間くらいな感じかな。
あっちに引っ張られたり、こっちに抑えつけられたり、ドーンと突き飛ばされたり。
まあいいんだ。
自然に問答無用に変化を求められるのは、激しい時代の前触れだから。
前触れを知ってるってことは、準備ができるということ。
だから今、次に向けて全ての人が準備できることがある。
僕は終戦直後に生まれてはいないけど。
戦後の日本の発展が記憶にある人が、まだまだ生きていてくれている。
若さが活躍するために一番必要なのは、先輩たちの背中だと教わってきた。
昔ながらに、権威や物質を維持しようというような誤解をしないで、先輩たちが共に時代を進むことをあきらめないで欲しい。
その姿勢を若い世代は待ってます。
学ぶことを忘れないでほしい。
旧い「覚える」学びじゃなくなってる。
今は自分の好きなことを学べる、みずみずしい学び。
昭和、平成、令和だけがこの国の文化や歴史ではないから「昔はこうだった」は「自分の育った時代はこうだった」としかいえない。
「何でこんなことも分からないんだ?」と散々に言われて、ガッツを武器に必死にくらいついてきた世代もいるけど。
今若い世代は先輩たちに対して「何でこんなことも分からないんだ?」と、どうか仕返しはしないでほしい。
それではなにかをつくりだせる対話にならないから。
対話を通して何もつくりだせないのなら、それは向いてく方向が間違ってる。イイ対話を誤解している。
一人ひとりと、みんなが、どんな未来を残したいか?に向いていきたい。
未来に向かっていく勇気の宣言。
知覚とか生き方同様、
みんなが同じ向き方じゃなくていい。
共に学んで、共に進む。
僕らはみんなで生きている。
っていつも思えたら、きっと優しい人がたくさんになる。
【天邪鬼35周年記念コンサート 『情熱』】
9月10日(金)
9月11日(土)