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#勇気の芸術 8 『見えないところにおしゃれをする "粋"』

#勇気の芸術 7 『天才は自由の総量でできている』
のつづき


天才たちが天才に見えるのは、彼らにとって「やりたい」の鍛錬や根性は、努力の延長線上にはないということ。

自分の中から溢れ出す情熱・衝動のなかで絶えまなく生きていると、自分の全ての時間が、つみ重ねの総量として蓄積されていく。

生きるための仕事、
(お金を稼ぐための仕事という意味)
寝ている間だって、
何をしているときでも、
自分を生きるということに繋がっていく。



歴史を変えてしまうような発明をしてきた天才、偉人と呼ばれる人たちも同様で、これこそ「自由度」に比例しているよう。

彼らに共通するのは、

熱中できるものに没頭していること、

やれる(周りが認めてくれる)環境がある、

そして、時間を懸けて継続してやれること。


今は未だまだ、この国にはこういう偉人を生ませない、排他する傾向にある。
みんなと同じように感じない、同じ行動をしない人へは、発達障害者という代名詞すらがつけられてしまう。少しずつ、変わってきているのは肌で感じる。でも、


なんだかな。

今は社会がいきづまっていて、矛盾していて、ギリギリのはざまのような気分。不思議な話。


安心・手ごたえ重視の社会に、パンデミックのような太刀打ちできない不安がやってくると、我さきに安心を買い占める風潮になる。

しかし、
安心を買い占めつづけても、満たされることはなく、このままでは先に進めないことが分かってくる。
そうすると次は。

次は、他力本願的に何かを変えてくれるヒーローを待ち始める。

ヒーローが生まれるのをいじらしく待つくらいなら、ヒーローが生まれるじゃまをしている「旧き良き制度」や「首を絞め合っている文化」だったりを、そんなことをみんなが理解することこそが、誰にでもできる一手なのに。そうすれば、世界は思ったよりも素敵なんだと感じられるはずなのに。


望んでおきながら、一方でヒーローを生ませないという現象。


行動が矛盾していることに気づかないのが今の生きづらさを生んでいる。
不思議な現象。

間違えてはならないのは、誰かが悪いわけではない。
誰かのせいにしたくなるのは、学びを止めてしまっている自分に抗えなくなっているから。
本当は学びを止めたい人なんていないはず。

だから、

少しその気持ちを忘れてるだけなら、また思い出せばいい。

生きることを学ぶことは、楽しい。



自らの知覚で生きることが肯定される社会に、自らがする。
そうすれば、黙っていてもヒーローは有象無象に現れる。

手ごたえも、安心もつかみたくなるのはとても人間らしく愛おしいけども、
残念ながら、純粋な『生きる学び』のつみ重ねは目に見えず、形もない。


右へならえで、ガッシャンガッシャンと色んなものを生産し、戦いに強い人だけが生き残れた時代では、このつみ重ねに時間や労力をかけることは、それほど注目しなくてもよかった。
こんなことはまさに非合理的であり、安心安定が常識である社会の反対側にあるから。

しかし実のところ、
純粋につみ重ねをしてきた人に出会うと、何かビリビリを感じる。

そんな出会いがたまらなく好き。

「粋」は「見えないところにおしゃれをする」というエッセンスを含んでいる。

美しさや生き方の話にも繋がる、目に見えない蓄積。

妙だけど納得の行く話。

大切なのコトはきっと、目に見えないことに変わったんだ。

いや、もっと大切になっただけなのかもしれない。

というお話でした。

また次回読んで頂けると嬉しいです。
読んで頂くと、その読んで頂いた人を想像して、また書きたくなります。

明日と明後日は、シークレットライブの日です。

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