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日本再生:第1章 いかに生きるべきか 1.5.オルテガ命題「私は私と私の環境だ」



1.5.オルテガ命題「私は私と私の環境だ」


「真の自己」と社会環境の関係


「真の自己」を生きるためには、社会環境が極めて重要な役割を果たします。環境はダーウィンの進化論において欠かせない中心概念ですが、「自己」という哲学的なテーマにおいても、自己と環境の関係は鍵となります。この点を明確に示したのが、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットです。

オルテガは、「私は私と私の環境である」という命題を通じて、自己と環境が切り離せない関係にあることを示しました。彼の「生の哲学」は、環境を無視して自己を語ることができないことを強調しています。この命題は、「真の自己」と「偽りの自己」の関係を理解する上で、極めて有用な出発点となります。

「生の哲学」とは、「いかに生きるべきかについての考察」と解釈することができます。オルテガによれば、自己とは孤立した存在ではなく、常に環境との相互作用の中で形成されるものです。この視点から、「真の自己」を生きるためには、環境が「真の自己」と調和するものでなければならないという結論が導き出されます。

したがって、「真の自己」を生きるために必要な条件を考察する際には、オルテガの「生の哲学」を基盤に、環境と自己の相互作用を理解することが最適な方法であると言えるでしょう。

オルテガの「生の哲学」ー「私は私と私の環境だ」


オルテガによる「生の哲学」は、「私は私と私の環境だ」という命題から出発します。これは「私の生は、私と私の環境の相互作用で決まる」と言い換えてもよいでしょう。ここで、一番目の私は「現実の私」、二番目の私は「真の自己」、そして「私の環境」とは「私が生きて活動している世界環境」と理解すればよいと思います。

そうすると、オルテガの命題は「現実の私は、「真の自己」と私が生きて活動している環境の組み合わせ、もしくは相互作用で決まる」という意味になります。人間は環境の中で活動し環境によって影響を受けながら生きているということです。

その意味は、マルティン・ハイデッガーの「人間は世界内存在である」という命題が意味するところと似ています。ただ、オルテガの表現の方が優れている点は、「現実の私=真の自己 ⊗ 私の環境」という方程式が成立していることを明確に示していることです。ただし、この記号 ⊗ は相互作用を表していることに注意してください。

このオルテガ命題は、初期の著作『ドン・キホーテをめぐる思索』の中で初めて登場してきましたが、一貫してオルテガ哲学の基盤をなすものです。オルテガのすべての著作の背景にはこの命題が隠れて存在しています。


オルテガの「大衆人(Mass-Man)」批判


オルテガは、自身の「生の哲学」に基づき、「大衆人(Mass-Man)」に対する批判を展開しました。この大衆人批判は、表面的には「大衆」という概念への否定に見えますが、実際には「偽りの自己」を生きる人々に向けられたものと解釈できます。なぜならば、オルテガが批判する「大衆」という概念は、具体的な集団や階級ではなく、むしろ精神的・文化的な態度や個人の存在様式を指しているからです。

オルテガが定義する「大衆人」とは、本書で定義した「偽りの自己」を生きている人々と考えてよいでしょう。彼は『個人と社会』の中で次のように述べています。「孤独の中で人間は自己に真実であるーしかし社会の中では、自己の単なる因習もしくは偽造になる傾向がある」(オルテガ『個人と社会』、白水社、2004年、p.125)。この言葉は、社会的圧力の中で「真の自己」を失い、周囲に歩調を合わせた「偽りの自己」として生きる現象を鋭く指摘しています。


さらにオルテガは、『個人と社会』の中で、社会的なるものの本質を「慣習」という現象に見出しています。彼によれば、「慣習」とは外部から与えられるものであり、それは私の意思による行動ではなく、非合理的でありながら強制力を持つものだとされています。この「慣習」の概念は、本書で用いている「文化遺伝子」という概念と対応するものと言えるでしょう。

オルテガの議論が「偽りの自己」を生きる構造的要因を理解する手助けとなることを、ここで指摘しておきたいと思います。

ハイデッガーの「世人(Das Man)」批判


オルテガの「大衆人(Mass-Man)」は、ハイデッガーの「世人(Das Man)」に類似した概念です。両者は共に、社会における個人の生き方を批判的に考察し、個人の本質的な自己を喪失させる要因を描き出しています。

オルテガは、「大衆人」を他者と同じことをすることで個性を失い、社会の中で無批判に流される存在として描写します。一方、ハイデッガーの「世人」は、日常生活において他者の期待や常識に従い、没個性的な平均的な生き方を選択する人を指します。ハイデッガーにとって「世人」とは、他者の視点や社会的規範に埋没し、自分自身の本来の可能性を見失う状態を象徴しています。

これらの批判に共通するのは、社会的な同調や他者への迎合によって、個人が自律性を喪失し、本来的な自己(真の自己)を生きることが妨げられる点です。この点で、オルテガの「大衆人」もハイデッガーの「世人」も、本書における「偽りの自己」を生きる人間に対応していると考えることができるでしょう。(参考文献:マルティン・ハイデガー(著), 高田珠樹(翻訳)、『存在と時間』、作品社、2013年)

(マルティン・ハイデガー(著)、熊野純彦(翻訳)、『存在と時間( 全4冊セット)』 (岩波文庫) 、岩波書店、2013年)


オルテガの『大衆の反逆』


オルテガによると、現代社会を支配しているのは大衆人であり、大衆人とは自分の使命を認識できず、波のまにまに漂う人間であり、生の計画(倫理=エチカ)を持たない人間です。そのような人間は、本書の「偽りの自己」を生きている人間そのものではないでしょうか。

では、現代文明の中に突然躍り出た未開人であり野蛮人である大衆人、自らの使命を顧みず、みんなと同じであることに満足しきった大衆人は、人間の生や現代社会をいかに変質させたのでしょうか?

ある社会の生の形式の選択決定は、その社会を支配している人間のタイプの性格で決まります。そして、現代社会を支配しているのは大衆人であり、現代社会の特徴は一人ないし少数の規範に追従したいと感じる大多数の自発的な衝動です。つまり、大衆支配という事実の中に、表裏一体となって秘められている大きな可能性と危険性が、現代社会には常に共存しているのです。

道徳と文化の衰退の危険性についてのオルテガの警告は、現代の問題、特に同調と凡庸さへの同様の傾向が蔓延している現代の日本社会にも当てはまるのではないでしょうか。


オルテガ命題の驚くべき有効性


オルテガの『大衆の反逆』における議論には、社会環境の中に投げ込まれた個人としての人間の生き方、すなわち「生の哲学」がその背景にあることは明らかです。

実際、「生の哲学」の出発点である「私は私と私の環境だ」というオルテガ命題を用いることで、個人が置かれたさまざまな社会状況を想定し、それらを分析することが可能です。それでは、この課題に早速挑戦してみましょう。

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