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自己紹介-世界を舞台に飛び回りました


日本の学生時代

高校時代には将来理論物理学者になるつもりで東京大学理科I類に入学しました。しかし、大学生時代に大いに自由を満喫し、さまざまな分野の本を読み漁ったところ、自分がいかに無知であるかということに気が付きました(これを「無知の知」とでも呼ぶのでしょうか?)。

同時に、自然科学以外の分野の本をたくさん読むにつれて、知的興味が自然科学から人間そして社会科学へと移っていったのです。さらに読書と独学をを通じて、社会の仕組みを理解するには経済学の知識が不可欠だと認識するようになりました(これは確かに間違ってはいなかった!)。となれば、世界の経済学研究の中心地で学ぶのが最適だと思い、また若いうちに日本の外の世界を見ておきたいと考え、北米に留学することを決意しました(一石二鳥だ!)。

カナダ・トロント大学時代

その後、東京大学を中退して米国の田舎の大学で一年過ごし、最終的にカナダのトロント大学で経済学と数学を専攻し学部を卒業しました。トロント大学では、寮に入ってはじめ1週間ぐらいはうまく生活になじめませんでしたが(一人で食事をしていた)、ある時4~5人で食事をしていた学生グループが全員僕のテーブルに移動していっしょに話しながら食事をしてくれました。それ以後は、彼ら彼女らと仲良くなり寮生活も楽しくなったのでした(感謝感謝!)。

当時、トロント大学には多くのユダヤ人学生(頭にペンダント?をかぶっているのでわかる)と香港からの大量の留学生が来ていました。香港からの留学生が異常に多かったのは、大学のレベルが高いわりに授業料がとても安かったからだと思われます(ただし、今は授業料は高くなっていると思います)。そこでの大学生活は、プールで泳いだり、キャンパス内をジョギングしたり、学生寮対抗のアイスホッケー大会(といってもホッケースティックの代わりにほうきを使って長靴はいてアイスホッケーリンクを走り回る)に参加したり、いろいろ楽しく過ごしましたよ(トロントはよかった!)。

ただし、それらは単なる息抜きで、日本の大学とは違って授業はすべて出席当たり前プラス土日も一日中勉強しました。特に、土日の勉強は平日の授業についていくのにいっぱいで遅れた部分を取り戻すために必要不可欠な貴重な時間でした。定期試験期間中は、みんな一緒に立派な当時最新の大学図書館で夜中まで試験勉強していました。日本の大学では想像できないほど、みんな(もちろん一部の例外はいましたが)勉強していたのでした(それでもトロントはよかった!)。

もう一つトロントでの楽しい思い出があります。夏休みに寮生の女学生が自宅でパーティ―を開催するということで、僕も参加申し込みしました(寮は男女共生)。実はこのパーティ何らかの事情でキャンセルになったのですが、僕だけそのことを知らず一人でトロントから一間ほどバスに乗って彼女の町まで行って家に電話したのでした。すると彼女のお母さんが車で僕を迎えに来てくれて、彼女がライフガードのアルバイトしていた湖まで連れて行ってくれたのです。そこでパーティーがキャンセルになったことを知り、びっくり仰天の再会でした!

その年のクリスマスに、僕は寮で一人寂しくしていたのでした。クリスマスの時は、僕のような貧乏留学生を除いて寮生みんな家に帰省してだれもいなくなるのです。香港からの金持ち留学生はもちろん香港に一時帰省。その時あの夏の女学生の家族が車でトロントまで来て、僕をトロントに住んでいる親戚のクリスマスパーティーに連れて行ってくれたのです!その夜は、みんなでゲームをしたりおしゃべりをしたりしてとても楽しい夜を過ごすことができました。トロントでは、みんなにとても親切にしてもらいました。いまだに感謝しています!

米国・プリンストン大学院時代

トロント大学を2年で卒業し(夏季集中授業+東大などからの単位振替などを使って)、すぐにトロントからプリンストン大学のある米国のニュージャージ州まで、二日かけてU-Haulトラックを運転して移動しました。当時、私はまだ運転免許所を持っていなかったので、運転したのは結婚したばかりのアメリカ人の妻でした。妻とはトロント大学のキャンパス内の教会で卒業年の夏に結婚したばかりでした。

このようにして、やっとプリンストン大学大学院で経済学を本格的に学ぶことになりました。大学院での毎日はもちろん毎日勉強勉強の連続でした。いまから振り返ってみると、一つのことに集中して努力するという経験はとても楽しい思い出です。もちろん当時は大学院生みんな大変でしたよ。経済学部の教授陣には、日本でもお馴染みのジョセフ・スティグリッツ(後のノーベル経済学賞受賞者)、ヒューゴ・ソネンシャイン(後のシカゴ大学学長)、ハロルド・クーン(クーン=タッカーの定理とゲーム理論で有名な数学者)などそうそうたるメンバーがいました。

特に、ハロルド・クーンは自分の研究以外でも、ゲーム理論の中心概念である「ナッシュ均衡」で有名なジョン・ナッシュがノーベル賞を受賞する過程で重要な役割を果たしたことで知られています。ジョン・ナッシュの物語は後に「Beautiful Mind」として映画化されたのでご存じの方もいるかもしれません。

実は、大学院生だった時に、ジョン・ナッシュに大学の数学学部図書館で出会ったことがありました。もっとも、当時は、その人があの有名なナッシュだとはまったく知らずに、私は数学学部の図書館でよく勉強していました。なぜ、数学学部の図書館かというと、そこが一番静かで気に入っていたからです。その人がナッシュだと気が付いたのは、私が大学院を卒業してからナッシュがノベール賞を受賞してテレビなどで見かけたからです。

このようにして、努力と苦労と楽しみとさまざまな発見が混じった年月をへて、プリンストン大学大学院からは経済学のPh.D.(博士号)を取得することができました。

米国州立大学からIMFへ

経済学者としての最初の仕事は、アメリカのインディアナ州立大学で助教授として学部生および大学院生を対象に、経済学入門、マクロ経済学、計量経済学(大学院)などの授業を担当することでした。私の大学院生対象の計量経済学の授業を取った学部生に非常に優秀な女子学生がいました。他の教授の話によると、大学開校以来の一番優秀な学生ということでした。確かに、すごく頭の切れる学生で世界中のどの大学院にも簡単に入れると思われるほど優れた頭脳の持ち主でした。彼女はその後どうなったのだろうか、知りたい気がします。

大学で教えている間に、経済理論を研究しているだけでは飽き足らない気がしてきて、経済学の知識を自ら実践してみようと考え、首都ワシントンD.C.に本部があるIMF(国際通貨基金)でエコノミストとして働くことに決めました。当時の円ドルレートは一ドル250円ほどの円安・ドル高だったので、当時のIMFの給与が日本のサラリーマンの数倍も高かったのも魅力のひとつでした(今はそんなに違わないかなと思います?)。

IMFでは、アジア局(Asian Department)、調査研究局(Research Department)、西半球局(Western Hemisphere Department)などの部署で働きました。調査研究局では、当時高かった日本の貯蓄率の決定要因と将来予測、IMFミッションで何度も訪問したカリビアン諸国の観光産業のさらなる発展可能性、アメリカ経済と政策効果、などについて研究しました。その間、多数のIMFミッションに参加し、世界各国の経済状況を調査分析しながら世界中を飛び回りました。

IMFミッション

IMFミッションとは、加盟国(世界中の200か国ほどがIMF加盟国)を訪れて、データを収集したり(中央銀行を含む)政府関係者および民間企業(主に主要銀行)の代表者などとの会合を通じて経済状況を分析する仕事です。

IMFミッションは5名前後のエコノミストから構成され、それぞれが実体経済、金融、財政、貿易および為替などの各部門を担当します。問題のない国であれば年に一回1~2週間ほどIMFミッションが訪れることになります。

ミッション中はホテル住まいで、朝から政府各省庁を訪問しデータ取集や会合に参加します。夕方、みんながホテルにもどると夕食後の仕事がまた始まるまで一時間ほどの休息を得ることができます。カリビアン諸国にミッションで行ったときには、サンゴ礁の白い砂浜で泳いだりすることができました。忙しい緊張した一日の中の楽しいひと時でした(なつかしい!)。

一番仕事的に厳しかったのは、当時アフリカの超問題国だったタンザニアへのIMFミッションでした。ホテルのエアコンが壊れていたり、トラベラーズチェックやネクタイピンが盗難されたり、インド系のミッションチーフが仕事のプレッシャーでイライラしていたりと色々大変でした。

一番楽しかったのは、インドの南に位置するモルディブ(Maldives)へのIMFミッションでした。あんなに青く澄んだ空と海そしてサンゴ礁の中を泳ぐ熱帯魚や白く綺麗な砂浜を見たのは初めての経験でした。次回は仕事ではなく観光客として訪れてみたいと長い間思っていましたが、いまだに実現できていません(残念!)。

日本銀行時代

結局、IMFでは7年間働くことになりましたが、そのうちの2年間は、IMFから日本銀行への出向という形で日銀金融研究所でバブル経済の研究に取り組みました。当時の日銀での研究仲間には、現日銀総裁の植田和男や現コロンビア大学教授の伊藤隆敏などがいました。

当時の日本はバブル崩壊の真最中で、経済学者としては非常にエクサイティングな時代だったと振り返って思います。金融政策の決定メカニズムを内部から見ることができたのはとても有益な経験でした。もっとも日本経済はその後「失われた30年」に落ち込んでいくことになるわけですが、それも経済学者の視点からはとても興味深い出来事だといえます。

日本経済のバブル崩壊が始まった二年間ほど日銀で、EC経済統合や資産価格と金融政策の関係(動学的価格指数)の研究を行った後、一度IMFにもどりました。IMFでさらに一年間働いたのちに、日本の国立大学で教えることに決めました。IMFなどの組織で長年働いていると、だんだん学習する量と質が落ちてきて頭が劣化していくように感じることがあります。結局、十分な経済学の実戦経験を経た後に、体よりも頭を使った仕事に復帰したかったからだと思います。

日本の大学教授時代

日本の国立大学では学部および大学院で国際金融を中心にさまざまな経済学科目を担当しました。大学では毎年同じことの繰り返しであり、授業やセミナーで相手にする学生は常に20歳前後の若者たちばかりなので、何年たっても自分が年を取って行くことに気が付くことがありません(鏡の中の自分を見るまでは・・・)。したがって、あまり気が付くことなく、あっという間に時間が飛んでいきました!

日本の大学生は、おそらく世界で一番勉強しない学生だと思います。海外の先進国では、給与の高いプロフェッショナルな職に就くために大学院で修士や博士の学位をえなければなりません。そのため、大学では自分の人生をかけて一生懸命に勉強します。なぜ、こんなにも違うのか?

私に言わせれば、日本の若者は大学入試というレベルの低いところで受験競争し、日本以外の若者はレベルの高い大学院入学のための受験競争をしているわけで、これでは世界と勝負できないなと思っています。日本の理学部・工学部あたりは世界に通用するのかもしれませんが、社会科学の分野ではまともな勝負にならないかもしれません。

さて、大学で教える傍ら、政府やIMF 関連の調査研究の仕事を引き受けたりしながら積極的に大学の外でも活動しました。

例えば、政府機関(内閣府経済社会総合研究所)の研究員として「アジア危機」の研究をしたり、日本政府が出資しIMFが運営しているJapan-IMF Scholarship Program for Asia (JISPA)の審査委員として活動したこともあります。

JISPAは、アジア諸国の優秀な若手官僚および中央銀行職員が日本の大学院が提供する経済学コース(英語)を履修することができる奨学金制度です。アジア諸国から来た卒業生は、将来母国で政策決定に参加する官僚になることが期待でき、将来の日本の外交にとって非常に重要な資産を手に入れることができます。これは日本政府とIMFの長期的将来を見据えたプロジェクトとみなしてよいでしょう。

JASPAの審査員として、アジア諸国の政府・中央銀行を訪問し奨学生(JASPA Scholars)を送り出す側の多くの意見を聞くと共に、東京大学、一橋大学、国際大学(IUJ)、政策研究大学院大学(GRIPS)などが英語で提供する経済学・公共政策コースの資格審査と内容改善のための提言をしました。

最近翻訳した経済書『人口大逆転』

私が最近翻訳した経済書として次の書籍があります。

チャールズ・グッドハート&マジノ・プラタン著、澁谷浩訳『人口大逆転 - 高齢化、インフレの再来、不平等の縮小』、日経BP・日本経済新聞社出版、2022年5月

本書の内容は、世界各国の人口動態の大転換によって、世界経済および日本経済は過去30年のデフレから今後30年のインフレ時代に突入していくという経済分析です。

本書の大きな特徴は、第一に、そのグローバルな視点であり、第二に、その長期トレンド分析です。これら二つの特徴が、短期の各国経済の景気動向を対象にしている多くのマクロ経済分析とは決定的に異なる点です。

本書は次のような問いに明快な答えを出すことができます。
問1.なぜ、日本経済は1991年のバブル崩壊度、デフレ的な長期停滞に陥ったのか?
問2.なぜ、日本の労働賃金は過去30年間ほとんど上昇していないのか?
問3.なぜ、日銀の異次元緩和は、2%のインフレ目標を達成することに失敗したのか?
その理由をグローバルな視点から解明しています。

本書は2022年のエコノミストが選ぶ「経済書ベスト10」に選ばれています。原書(The Great Demographic Reversal)はファイナンシャル・タイムズ紙2020年ベスト経済書にも選ばれています。

最近書いた「日経ビジネス」記事

また、最近、次のような「日経ビジネス」の記事を書きました。
日銀黒田前総裁が見逃した「ポパー理論」 重要なのはデフレ対策ではなかった」(2024年7月19日)

この記事の三つのポイントは次のようになります。

1.黒田東彦前日銀総裁はカール・ポパーの信奉者である
2.ポパーの「問題解決図式」で黒田日銀の異次元緩和を分析
3.「デフレ解決」との問題設定が間違い。真の問題は「低成長」

日本経済および金融政策に興味のある方はぜひ参考にしてください。

最後に、今わたしが本当に書きたい本

わたしが今考えている本当に書きたい本のトッピックは、

日本再生ー個人の成長と社会の繁栄をいかに実現するか?

という問題です。ある程度構想が決まっているので少しずつ書いていきます。こうご期待!

わたしが目指す本のスタイルは、ユヴァル・ノア・ハラリの著作です。例えば、『サピエンス全史: 文明の構造と人類の幸福』を目標にしています。

すなわち、学際的なアプローチで学問的に基礎づけられた内容を持った本であること。知的レベルが高いけれども、専門家ではない一般のひとびとが読んでも理解できるような本であること。しかも、ベストセラーになるだけのインパクトを持った本で、かつひとびとの知識と考え方を変革できる本であること、です。

実は、ユヴァル・ハラリの問題意識とわたしの問題意識には重なる点が多くあります。それは、本質的に、人間と社会に関する興味です。ただし、わたしの場合は、日本人と日本社会を念頭に問題分析していく点で直接の主題は異なっています。しかし、その根底にある問題意識(人間と社会)は共通しています。そしてわたしが目標にする本当に書きたい本は、ユヴァル・ハラリの一連の著作のスタイルを踏まえた上で内容の深い書物でありたい、と思いながら現在執筆中です。順次公開していきます!


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澁谷浩
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