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07「MとRの物語」第一章 6節 シンプルな世界

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 暗くひんやりとした病院の玄関を通りぬけ、診察室へ向かった。お昼すぎの待合室。平日というのに、人が多かった。こんなにも多くの人が、助けを必要として、ここにきているのだ。私達病人にとって、病院とは、なんとありがたい存在なのでしょう。でも私がそう気付けたのも、ヤキソバを食べて気を失ったおかげ。人生とはなんて、数奇なものなのでしょう。少したって、整理券の番号を呼ばれた私は、母とともに診察室に入った。

 病院の診察室というものは、薬品臭くなくてはならない。それに医師というのは、頭に丸い、銀色の器具(?)を付けていなくてはならない。でも現実の診察室は、そんな私の先入観などおかまいなしだ。部屋は清潔であかるくて、匂いなんてしなかったし、お医者さんはこざっぱりとした、若いイケメンだ。 首から下げた聴診器だけが、かろうじてこの人はお医者さんですよと、主張していた。

「Rさんですね」
「はい」
「検査の結果が出ていますが、全く問題なし、ですね。ただ、そうなると食事をした直後に倒れた理由が、不明となってしまいます。もう少し入院して様子を見るか、退院して様子を見るか、どうなさいますか?」

どうしようかな、と私が考えようとしたとき、母が言った。

「何かの病気の可能性は、どの程度なんでしょうか。その可能性が高いようなら、退院させて、後悔したくはないと思っています」

「はい……。Rさんは、どう思いますか?」

「私? 私は……」

医師と母と、医師の後ろに立っている看護師が、私を見つめた。母に気をつかう私なら、「大丈夫です、退院させてください」と答えるだろう。本音を言えるようになった私なら……。

「大丈夫です、退院させてください」私は右手で「いいね」のサインを作り、医師にむけた。母がぷっと噴き出した。なんだか急に、私は行動が、大胆になったかもしれない。一晩の入院のせいだろうか、Mさんとの出会いのせいだろうか。いや、間違いなく原因は、Mさんだ。彼は昨日の夜、私に言ったのだ。「人間はむずかしく考えすぎる」と。


 昨日彼は私に、こう言った。

 人間の考える、あの世というものや、神と呼ばれるものは確かにある。地獄や、天国だってそうだ。だが、人間はそれを、あまりに複雑に考えすぎているんだ。状況はもっと単純、すべては、この世界の物理法則の、ちょっとした拡張、毛が生えたようなもの、に過ぎない。
 もし、そのことが人間にばれてしまったら、この世はどうなる? 人間は貪欲なもので、この世の事象のすべてを、自分のために利用する。となれば当然、あの世の支配、また、神の支配をも企てるだろう。別にそれを、俺が止める必要もないのだけれど、そうなってしまうと、たぶんあの世は、とてもなくつまらないものになってしまうんだ。そう、この世とあの世をひっくるめて考えれば、俺達は、ひどく退屈な世界に、神とともに永遠に閉じ込められた、囚人でしかないのだ。となると、神とうまく付き合うことが、大事なことだとは言えないかな? 俺達が永遠に退屈せずに、生きるためにね。

 Mさんの話の後半、私は半分、眠りそうになっていた。そのせいで、ほとんど理解できてはいないんだけど、ひとつだけ理解できたことがある。それは、「この世の人達は、ほとんど何も、理解していないのかもしれない」ということ。それはなぜかというと、Mさんによれば、人間は前世の記憶を消されて、生まれてくるから。じゃあ、私にも前世というものがあって、死んだらその記憶が戻るのか、と聞いたら、Mさんによると答えはYESだそうだ。なんというシンプルさ。私は、死後の世界が気に入り、満足して眠りについた。そんな私を、Mさんは困ったように見つめていたっけ。

 
 とにかく、昨日の夜のMさんが本物なら、死後の世界は本当にあるということだ。病気だって、そんなに気にする必要もないのかもしれない。

 私が右手の「いいね」のサインを崩して、しばらくの間は医師は、私の顔を疑わしそうに見ていたけれど、やがて顔を崩して「いいでしょう、でも何かあったらすぐにお電話くださいね」と言って、机におかれたPCに向かってカタカタとキーボードを叩いた。こうして私は、病院という牢獄から抜け出したのだ。と言っても、特に解放感とかはなかったけれど。

 帰りの地下鉄で、私は母に、Mさんのことを話してみようかと、何度も思ったけれど、電車の走行音がうるさくて、それに乗客が意外と多くて、そういう話をするのが恥ずかしく思えて、結局相談できなかった。母には本音を言おうと今日決めたばっかりなのに、もう諦めてしまうのか。もし今、この車内にMさんが現れたら、もっと気軽に、母にもしゃべれるに違いない……。

 Mさん? Mさん? 聞こえる?

私は心の中で、Mに呼びかけた。馬鹿だ……、やっぱり私は、どこかおかしいのだ。きっと頭の打ちどころが悪かったのだ。自己嫌悪で落ち込んでいるうちに、電車は見慣れた駅に着いた。

<つづく>

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