蒸されてきた
「黙蒸」と書いてある。当たり前のような顔で目立つところに貼られているが新しい言葉だ、だが何となくというか言いたいところは解る。入り口には「黙浴」。
コロナ以降不特定多数の出入りする公衆浴場では至る所に貼られている、誰が考えた言葉なんだろうか、新しい日本語だ。
「風呂ぐらい黙って入れ」コロナによって好転した珍しい例の一つだろう。コロナ以前、今日のサウナブームより前はサウナ室内の会話なんて当たり前だった。知り合いとのちょっとした会話ならまだいい。知らないおじさんに話しかけられるようなこともあった、裸の知らないおじさんにいきなり話しかけられることなんか許容出来る訳も無く、非常に不快な気持ちを引きずりながら帰ったりもした、高田馬場が一番酷かった。
サウナが流行っていると知ったのはもうすっかりブームが出来上がってからだ、田舎の近所の銭湯にしか行かないような人間は情報が遅い。都内では入場制限、サウナや外気浴に行列をしながら入っているらしい、何とも腑に落ちないがこれがブームなんだろう。しかしながらテレビドラマや各種メディアでの宣伝がちゃんとしているんだろう、極端にマナーの悪い人間は目につかない。従来のユーザーのほうが難がある、「黙蒸」とは程遠い。
銭湯が昔から好きでよく行っていた、サウナを好んでいくようになったのはずっと後だ。東日本大震災の後、帰れない日が3日ほど続いた。当時飲食店に勤めていたのだが、震災の翌日には銭湯に行っていた。幸運にも普通に入ることができた、当該地域にはそこまで被害がなかったのかもしれない。番台でも気を使ってくれたのか「サウナも入れますよ」と言われ追加料金を払った記憶がある、疲れて見えたんだろうか。単純に前日は使えなかったのかもしれない。サウナのテレビで津波のニュースを見ていた、周りの人の真似をして水風呂に入るのを繰り返して外に出ると普段よりさっぱりした気持ちになれた気がした。
以来空き時間を使ってよく行くようになった。今考えると娯楽が無い生活だった気がする。朝10時から深夜まで週に6日働く生活をやりきるだけの体力はあったかもしれないが、私生活は酒を飲むくらいしか無かった、ついでに金もなかった。今考えればとんでもない生活だ。サウナ料金を追加して風呂に入っても千円いかないくらい、夜中でもぎりぎりやっている。二十代前半だった当時は趣味が銭湯の人間は同年代には見かけなかった。ちょっと大人っぽく振舞いたかったのかもしれない。とにかく色んな所に行くようになった。
そうしてざっくり10年ほど、各所のサウナで蒸されてきたわけだが、昨今腑に落ちない事ができた。ととのうって何だろうと言うことだ。サウナに入っているときも気持ちいい、水風呂に入った時の気持ちよさもわかる、外気浴だって季節ごとに水風呂と時間を調整しながら堪能している。サウナハットをかぶっていないこと以外は十分にサウナを満喫している自信がある。地元の銭湯ではまだちょっと恥ずかしいから手を出せていないサウナハットは憧れでもある。
しかしながら頭が開くような快感もよくわからないし、目の前がゆらゆらと揺れるようなトランス状態に陥ったこともない。体がどっかに飛んでくような感覚もない。みんな本当にそんな感覚になってるの?なんか昔やってた変なクスリのフラッシュバックなんじゃないの?
実感として、体の疲れが取れる。気持ちが軽くなり前向きになる。おなかが減る。よく寝れる。この辺はよくわかる、しかしながらそんなトランス状態というのがよくわからない。もはや半信半疑でサウナ関連の動画を見たり記事を読んだりしている。
とは言え各々の感覚次第といったところ、言ったもん勝ちとは言い過ぎだろうか、とにかく今日もサウナにはいく、もしかしたら「ととのう」かもしれない。
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