FURACHIな夢(睡眠の方)をみた
昨日ですね、夢をみたんですね、で、すごい良い夢でした。まさかええ歳こいて、良い夢みただけでこんなにハッピーになるとは思いませんでしたね。どんなんかっていうと、女優さんと付き合うことになる、みたいな夢だったんですね。どの女優さんかというと、元気で明るい感じの、スマホのCMに出ている方でしたね。状況としては、付き合ってはいないけれど、何度か出かけたり食事に行ったりしてたみたいなんですよね。それで、煮え切らない僕にあちらがイライラして、「いい加減どうしたいの、私のことどう思ってんの、好きなの!?」みたいな感じで詰め寄られて、「お、おう」みたいな感じで、付き合いだす、ヒューヒューみたいな。
いまだにそういう夢見がちなところがあるんだなあと思ったら、確かに夢を見たわけですね。夢を見るってことは、自分の中で可能性を限定しない思考ができていると思うんです。時代小説の大家である池波正太郎さんも、なんかの本で、『夢見るのが楽しくてしょうがない』みたいなことを言ってたので、ああどんなに歳を言っても夢で楽しめるっていいな、というか、そもそも、楽しめることって、歳を経るごとに少なくなる、って発想がおかしいのでは無いでしょうか。だって子供も大人も、楽しい方がいいですよね、だって楽しいもん。大人になるにつれて、社会的常識が身について段々と笑顔も少なくなる、なぜなら人生の厳しさを知っていくからだ、みたいな見方をしていますけれど、これをもっと分解して考えてみましょう。子供の頃は、常識、こうしなきゃいけない、みたいな知識もなく、周りから求められる常識的な振る舞いも少ない、自由にしていいよって感じなので、自分が楽しいと思うことだけに没頭できる環境があるのですよね。でも大人になると、いろいろ周りから大人になれとか言われて、そうか大人になるっていうことは、なんか無邪気に楽しんじゃいけない、難しい顔してないと変な奴と思われるんだ、みたいな感じで演じてたら、いつの間にか、人生つまんなそうな顔しながら、若者に、大人になれっていう側になっちゃってる。
大人になるにつれて理性が発達して、社会貢献を求められる、これは自然な流れだと思うんですね。でも我々って、理性を、つまんないことでもやれちゃう力ぐらいにしか使ってないように思えるんですね。理性って本来は、物事を理解、分析、そして予測する力だと思うんですね。これって本来、理性が強まれば強まるほど、もっと面白いことができると思うんですよね。理性が高まると、うんこでは笑えなくなるかもしれないけど、だからって理性くんをつまんないことの処理にばっかり使ってたら、理性くんは未来もつまんないんだなって予測しちゃって生きるのつまんなくなる、みたいな。
子供も大人も楽しいのが好きなんですね、で、大人の場合、楽しいことは第一義であるという認識をしっかり持ってしょうもないオーディエンスの人生つまんないトークを排除して、楽しむ環境を整えて、自分がうんこより面白がれる、楽しいものを追求しよう、としっかりと考えたほうが、人生楽しめる。そうしないと、自然につまんなくなっちゃう。ような気がします。
じゃあ最初に戻って、夢を楽しむためにはどうすれば良いか。自分が女優と付き合えたらいいな、とか付き合えるんじゃね、とかそういう埒もないこと、不埒なことを普段から考えていた方が、人生楽しいですよね。埒(らち)って何?と思って今調べてみたのですが、元々は馬場の周囲に巡らした柵のことだそうです。平安時代に、うま比べっていう、馬の競争の競技があって、馬を競争させるんだから、馬を馬場から出さないことには始まりませんよね。つまり、仕切りである埒を開けないと、物事が始まらない、ってことだそうです。物事が進展しないっていう意味での「らちが開かない」っていう表現は、そういう由来があったんですね。
その埒が、仕切りの柵を意味して、それから物事の区切りや、物事の限界、という意味で使われるようになったそうです。
おお、らち=限界だって。だから、不埒なことを考えるのは、自分が勝手に決めた自分の限界を、突破するための原動力になるんじゃないでしょうか。不埒な奴とは、埒を出入り禁止の柵、決まりごと、ルールと捉えて、その柵を無視して飛び越えるような奴はけしからん、という意味で、不埒なやつ、と言われるようになったみたい。
正直言って、95%くらいの人って、ちゃんと常識がある人なんですよね。もう十分しっかりしているのに、誰からも文句を言われないように、さらに自分で型にはまりに行く、みたいなところがあるんじゃ無いでしょうか。もっと不埒になっていいんじゃないか。
不埒な奴は、誰かが勝手に決めた暗黙の了解とか、謎ルールとか、飛び越えられる人間なんです。また不埒な夢を見て、さらに不埒なことをしたいものですね。