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麻雀機械は七筒の夢を見るか~黒沢咲『セレブ麻雀』刊行に合わせて~

セレブ麻雀を読んだ


私は書店員なので麻雀本にはうるさいし、なんなら装丁や価格や版元や、本のすみからすみにまでうるさい。
まずはマニアックな観点から取り上げると、天下のKADOKAWAが来たな、という印象だ。
麻雀の戦術書といえばこれまで、竹書房とマイナビ出版が双璧なイメージだった。
最近では彩図社が、白鳥・村上・園田と、3人のMリーガーの著作を刊行し、どれも評価が高い。

そこへ、あのKADOKAWAが来た

スタイリッシュな装丁に、オールカラー。
内川幸太郎・黒沢咲・堀慎吾と、立て続けにMリーグの人気者たちの著作を擁し、今後の出版計画次第では、一気に業界の双璧を崩さんとしている。
同時に、サクラナイツのメンバーを原作に据えて麻雀コミックの分野にも進出しており、Mリーグ唯一の出版関連会社としての強みを存分に発揮している。もちろん、一連の動きには、森井監督の「采配」が影響しているのだろう。
今後も麻雀戦術本勢力図の行方を見守っていきたいと思う。

いや、内容の話だった


黒沢咲のスタイルとファッションセンスの素晴らしさを堪能できる巻中のグラビアはもちろん、黒沢と言えばこれ、という2局についても詳しく解説されている。
地獄西待ち四暗刻単騎に関しては、あれはもう内川の伝説とも言えるから、私にとっても、黒沢咲と言えば、「あの」7ピンという印象が強い。実際、好きな牌に7ピンを挙げ、自伝的小説『渚のリーチ!』(河出書房新社)においても、クライマックスシーンに持ってくるほど、本人にとって非常に忘れがたい、奇跡の大逆転トップだっただろう。

もちろん私もリアルタイムで観ていて、思わず叫んでしまったし、後にオフショットを見て、雷電の楽屋の興奮ぶりに再度、感染し、興奮した。
退場シーンの場面で、未だ興奮冷めやらぬ様子の黒沢さんが、すべての牌をねぎらい、感謝するかのように卓に戻る姿も非常に絵になるし、何より和了直後、実況の日吉辰哉が「鬼の形相からママの顔に戻ったか!」と表現したセリフ(個人的には噛むより重大な痛恨のミスだと思った)にすかさず「いやいや、勝負師の顔でしょう!」と解説の渋川難波が訂正したその表情。

顔は紅潮し、肩で息をし、鬼気迫る様子が解けきれず、疲れ果てたようなその姿は、これが漫画であれば完全に何かを捧げ、引き換えにしたかのような、妙な神々しさというか、個人的には、これを成就できた奇跡は、今後も続く彼女の残りの麻雀において、一切もう手が入らなくても納得できるくらいの偉業ではないか、もしや引退するのではないかとすら想像し、起こってしまった一連に畏怖したものだが、当の本人は「ああ、これだから私は麻雀から離れられないんだ」と天真爛漫に述懐されており、真逆の感想だったからズッコケて、複雑骨折してしまったのだった。

本題へ

Mリーグにおいて好成績を挙げている雀士は、機械的な部分を持っているというのが仮説である。

小林剛
言わずとしれたマシーン。ロボとも評されるその人間味に乏しい打ち筋は、麻雀において、ひたすらロジカルに計算し、利を積み上げれば得だといわんばかりの、究極のデジタルを体現する。良い偶然、悪い偶然という表現は、そんな彼の価値観をうまく示している。
小林は、淡々と、粛々と、摸打を行う。プロとして理想的な所作を完遂し、放送対局におけるプロの見せ方についても普及と啓蒙に努めている。言わずもがな、麻雀界最大の良心であり、お手本であり、至宝だろう。
そんな小林でも、実は平場では存外人間臭い一面もあると知られている。強烈な個性を持つ者は、真逆の一面を見せた時に好感度を上げる。不良が捨て猫に傘を差しかけるシーンのように。

佐々木寿人
魔王や攻めダルマの異名を持つ寿人もまた、人間ではないその二つ名から明らかなように、麻雀マシーンを体現する。
一定リズムの速い打牌、ガラクタリーチ、高速点数申告がそのイメージに拍車をかける。結果論協会も、寿人式見た目枚数理論も、よく考えれば機械のようだ。小林演算機と比べ、初期タイプ感は否めないものの。
そもそも、プロ入り前にフリーで◯千万貯めたという逸話も、どこかマシーン性を帯びている。
だからこそ印象的だったのが、
寿人の128秒だ。
長考の珍しさはもちろんだが、考慮中のあの表情を見よ。
目を細め、懸命に卓上の情報を読み取ろうとするあの顔には、哀愁や凛々しさや色気やが渾然としており、男も濡れるセクシーさだった。

両者に共通しているのは、機械のような麻雀からの、露骨な人間アピール。そのギャップ萌え。そこに痺れるし憧れるし、Mリーグ屈指の実績と人気を誇っているのである。

黒沢咲
機械には、プログラムされた挙動やミッションを淡々と遂行することが求められる。

鳴け→小林
攻めろ→佐々木
鳴くな→?

いやいや、最後、おかしいやろ

鳴くな、という命令のプログラムは、恐ろしい宣告のようなものだ。罰ゲームか。
だが黒沢は、己のスタイルを信じ、貫き、Mリーグにおいて、おそらくは下馬評を最も覆して、現に結果を残している。

ロジカルじゃない
効率が悪い
期待値的に損だ

当初はそう非難し、嘲笑していたネットデジタルの民たちが、今や「黒沢は別」「セレブだから」「彼女は例外」と評す=匙を投げる?までに至っている。これは物凄いことだ。手首売り切れ。

黒沢が著作で言うように、
麻雀は自由に打っていいものだ。

なるほど期待値や効率は数学的には正しいかもしれないが、それは長期的に考えれば得、というだけの側面もあり、実力が正確には反映されない短期のMリーグのようなフィールドにおいては、損得は微差である可能性が高い。
むしろ、最強戦のような超スプリント勝負や、Mリーグのような短期の闘いにおいては、機械のようなシンプルな麻雀の方が、結果が出やすいまである。どういうことか。

黒沢の『セレブ麻雀』には、

自信がある麻雀
自分が納得できる麻雀
自分の感覚に従う
麻雀を楽しむ
後悔しない選択をする

というような言葉が、何度も出てくる。要するに、とりわけ短期の放送対局であるMリーグという舞台においては、メンタル管理が重要だということだ。

組織の戦いであるサッカーに「自分たちの」サッカーというものがあるのかはよく分からないし、実際「自分たちのサッカー」は「絶対に負けられない闘い」と並んで、ネタ化し、揶揄される意味を帯びてしまっている。

しかし、少なくとも個人×4の戦いである麻雀においては、己が自信を持てる、自分のスタイルを確立し、それを実戦でも貫くことは、とても大事なことだ。
勝ちパターンとでも言うような展開が定期的に舞い込めばいい。しかし、麻雀はずっとついてないことだってある。例えば黒沢も寿人も、昨シーズンは比較的、地蔵であることが多かった。ふたりとも勝負する価値のない手牌ではすぱっとやめてしまう守備派の一面もあるから(そしてそれこそが強さや攻撃性の下地になっているから)、とにかく運がない、手が入らないときは、文字通り手も足もでないということも多い。

麻雀のゲーム性とはそういうものだ。
では、その理不尽をどう受け止めるか。
そこで重要なのが、その局の、その半荘の、その後の対局にまでつながるような、メンタル管理なのである。
ぶれないこと。崩れないこと。迷わないこと。
100万人に視聴される放送対局という、歴史上初めての舞台に上がっている32人にとっては、メンタルの維持管理は、読みや効率よりも、よほど大事なのだ。微差の選択で、そこまで結果が乖離するものではない。例えば最高位戦や協会Aリーグの舞台とMリーグとでは、フィールド自体が異なるのだ。おのずと、採るべき戦略も変わってくる。

肝要なのは、安定である。
メンタルの安定が成績の安定につながる。
そして、機械は人間より安定しているのだ。

安定しない麻雀というのは例えば、読みや技術や麻雀脳に秀でていて「サボらずに、やれることはやる」というタイプの打ち手のことだ。
自団体のリーグ戦ほどには結果が伴わず苦戦しているトッププロといえば、何名か名前が浮かぶだろう。
彼ら彼女らが弱いわけでも下手なわけでもない。ただ、よく言われるように、うまい麻雀より、強い麻雀のほうに分があるのが、これまでのMリーグにおける傾向なのだ。
愚直なまでに際立った個性をプログラムされた機械が、現状は結果を残しているといえるのである。

黒沢咲試論

黒沢咲の麻雀には、結果という「強さ」と、エンタメ性という「面白さ」(RMO!)、それらMリーグに求められている両輪を満たすような、突出した魅力がある。
近藤誠一や魚谷侑未にもそれがあるし、伊達にもその才能を感じる。MVPを獲得した瑞原だって、昨シーズンはリーチをする機械だった。
強いだけでも面白いだけでも不足な、過酷な舞台だ。人間力も必要とされているし、女性をチーム構成員とせねばならないレギュレーションは、熱狂を外へ拡張するための、極めて優秀なマーケティング戦略である。

実は黒沢麻雀の魅力は、まだある。
それは弱点と表裏一体であり、コバゴーや寿人ほど安定しない「ゆらぎ」のようなものだ。
機械優勢論の前言を覆すようだが、黒沢咲という女性は、あまりに人間的なのだ。
機械の双璧、コバゴーと寿人と比べてみればいい。
黒沢は、表情に喜怒哀楽が出る。
局の途中や合間に明らかに落ち込んでいる様子を見せる。
いわゆる「洗面器から顔を上げた状態」が伝わる時もある。
ふう、と息をつく局面も多い。
プレッシャーももちろんあるのだろうが、そのとき彼女は何より、内なる弱い自分・カッコ悪い自分と戦っているのだ。
視聴者には、ファンには、それがよく分かる。
勝負師としては致命的になりかねない特徴だ。

だからそれこそが、黒沢麻雀の魅力であり、弱点であろう。
もちろん、コバゴーも寿人も、ネタバレ注意だが、人間だ

それ以上に黒沢咲は、劇的に人間なのである。

だからこそ、奇跡のフリテン七筒が成就するし、その前後すべてに物語が宿り、大の大人の涙を誘う。ハギーと熊がカメラの前で抱き合うのだ。

おわりに

黒沢麻雀は機械性を持つ。
鳴くな、打点を見よ、価値ある手組にせよ、後悔しない打ち方をせよ、感覚を信じよ、自分が楽しい麻雀を打て、、、
彼女という機械には、そうしたプログラムが埋め込まれている。それは、彼女が長年の経験(年齢非公開)から、意識的、無意識的にインストールしたものだ。大なり小なり、誰にでもある。それが麻雀観や個性に通じる。
機械たる雀士は、それを如何なる場面でも徹底できる。そこに強さがある。

しかし、彼女は弱い。お嬢だから。食いしん坊だから。人間だから。
われわれは、機械と人間とのあわい、その「ゆらぎ」を時として目撃する。
そして、その葛藤に、苦悶の表情に、心を動かされる。

覚悟を決めた顔の凛々しさに。
覚悟を決めきれなかった顔の悔しさに。
機械になりきれなかった人間の弱さに。
機械を超えた人間が起こす奇跡に。

聖母のような微笑も、
すべてを悟ったかのような小さな頷きも、
裏ドラをめくる手つきの鮮やかさも、
麻雀に愛され、離れられない1人の普通の女性が、自らのスタイルを貫き通し、何度も闘うその姿も。
すべてが魅力的で面白く、そして美しい。

セレブ麻雀、来期も期待してます!

【追記】
本稿において敢えて触れなかった2人の天才、すなわち多井隆晴と堀慎吾には、さほど機械のイメージは無い。にも関わらず、自団体でもMリーグでも、いや、あらゆるフィールドで彼らは勝ちまくっている。個人的には、堀が天鳳名人戦でも結果を出しているのが驚異的だ。彼らについてはいつか論じたいが、黒沢咲もまた天才だ。
果たして、天才対機械対麻雀バカ(主に最高位戦男子)の闘いを制するのは? 
むろん、ひとりの人間を形式的にパターン化することなどできない。単なる、乱暴な分類にすぎない。
ただ、こうした図式で捉えて観戦することで、来期のMリーグにも更に愉しみが増えるのではないだろうか。と、提案してみた。

※敬称略、御無礼しました


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