♯5 帰省をするということ
(1)はじめに:帰省をするということ。
帰省をするということに自分の中で整理が必要になった。帰省を少し敬遠しているような気がしたからだ。自分が何を思って帰ってきたのかしっかりとわかることから始めようと思う。
(2)月と地球の距離は、毎年3.8cm離れていくこと。
毎年、正月、ゴールデンウィーク、夏休みの3回帰省をする。
実家の場所はいわゆる関東近郊のベッドタウンで、今住んでいるところから、電車で1時間程度とかなり近い。いつでも帰れる距離だ。
そんな場所には、小学校3年生から大学卒業まで暮らした。ずいぶん色々な思い出がある。
ふと振り返ると、社会に出て10年経った。最初の配属地は地方だった。その頃は実家に帰るのが楽しみで、年に6回は帰っていたような気がする。楽しみな理由は、昔からの友人にも会えるし、家族にも早く会いたかった。帰省するということで、私も家族も友達も喜んでいたような記憶がある。それは、すごく甘えていることだと思う。
(3)帰省:郷里に帰ること。また、郷里に帰って親を見舞うこと。
帰省という言葉には故郷に帰ること以外に、郷里に帰って親を見舞う意味があるらしい。
今年は母が大病にかかり、秋口から入院して手術をして退院をした。父親は理解力が落ちたのか、主治医の話を理解するのに時間がかかっていた。退院した母は今まで布団で寝ていたがベッドで寝るようになった。
帰省のたびに買って帰る今半のすき焼のお肉の量は前回の半分になった。
退院した後の母親は小さくなったし、優しくなっていた。
(4)空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない。
五賢帝の最後の皇帝、マルクス・アウレリウスは、その著書『自省録』の中でこう言ったそうだ。
空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない。
今年は落ちたのか、昇ったのか、多分落ちていたんだと思う。それが悪いことなのか。善いことなのかはわからない。落ちていく周期だったと思う。仕事も家庭もそんな周期。
ただ、落ちていくものを見ていることを、少し寂しく思う感覚を、アウレリウスはどのように整理したのだろう。寂しかったのか、気丈に振る舞ったのか。誰かに上手に甘えていたのだろうか。
(5)おわりに:帰省をするということ
正直に言えば、帰省はいつのまにか、得意ではなくなっていた。
それは、会うたびに衰えていく両親と対峙する心の強さがなかったからかもしれない。結婚をしていない自分への負い目かもしれない。甘えるために帰るのではなく、親を見舞いにいくからなのかもしれない。もう子どもを演じることに疲れたからなのかもしれない。
それでもこれからも帰省するんだと思う。
理由はわからない。
(6)追記:いつもの場所で
いま、中学生から使っているベッドの上でこの文書を仕上げている。このベッドは苦楽を共にしたベッドだ。失恋も、受験も、就職活動も、何にもない日々も。
あれから、かなり重くなった私を載せて、ベッドは何を思っているのだろう。白髪が混じった私を載せてどんな夢を見せてくれるのだろう。
私はまだ、どこかで実家に甘えていることに気づいた。